ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

人事出身者のFacebookの利用方法と同調圧力

2011年11月02日 | コンテンツビジネス
Facebookの「公開性」を是とするか非とするか――先日、「ソーシャルネットワークの時代と社会化・組織化される自己」の中でも書いたのだけれど、同様に「プライバシー」が消えて行くことやネット上の「人格」についての記事がここ最近、Wiredなどでも取り沙汰されている。

僕自身、Facebookとの距離感についてどういうものがBestなのかまだ結論が出せていなくて、まずはFBを試しているというところ。基本はTwitterに投稿したSBMやPhotomemo、コメントをFBと共有しているという感じなので、FBと縁を切ろうと思えばこの「共有」を止めてしまえばいいだけにしている。まぁ、衝動的に止めようかと思うことはしょっちゅうなんだけど(苦笑)。

FBがあくまで「リアル」な人間関係をベースに発達しているものだとすると、そこでは「人格」もリアルな世界でのキャラや人格、ペルソナの延長でなければならない。ましてや例えネット上の発言だとしても、リアルな世界の人間関係にも影響を及ぼしてしまう。

だからだろうか、人事関係の仕事をしている/していた知り合いのFB上での活動を見ていると、友達は多くとも自らの「発言」をウォールに掲載していることは少ない。もちろんこのことを本人に確認したわけではない。ただ中には、特段問題になりそうな発言がないとしても、ブログのように匿名性を担保されるものについては定期的に更新するのに、FBについてはそうした発言は全くなされていないのだ。

これはどういうことなのだろう。

もちろん彼らが特に意図的に発言をしていないとは限らない。リア充でネットにまで手が回らないだけかもしれないし、ただ誰かに誘われて試してみたというだけかもしれない。ただ定期的に友達の数が増えていることを考えると、そこには無意識にでも同じような思考が働いているのかもしれない。

会社の(特に人事関係者の)誰かに見られるかもしれない以上、不要な発言は控えよう。

まぁ、だとしたらそれはそれで仕方が無いのかもしれないけれど、そういった「日本的な」体質が特にエスタブリッシュな企業に巣食った病だといえなくもない。彼ら人事関係者は、一方では「創造的」「自発的」「既存の壁を突破できる」「出る杭」的な人材を求めつつ、そうしたものを排除する動きに同調しているのだから。

FBがもともと高学歴者を中心としたネットワークだったとか、アメリカでは自らをアピールして次のStepUpにつなげるためのものでホワイトカラーが中心のネットワークだとか、そういった各国特有の文化の影響があるのだとしても、されだも「個」のあり様を肯定しようという前提があるような気がする。

しかし日本ではそうではない。仮にペルソナというものが環境条件によって規定されるものだとしても、「個」の存在を周囲との関係性や同調性の中で捉えようとする圧力が強い。なぜ、こうまで同調圧力が強いのか。いや、その内部のものにとってはそれほど違和感がないのかもしれない。しかしいったんそこから外れてみれば、その同調圧力というのは凄まじいと思う。

彼らは彼らと同様な「私」を求めてくるのだ。

 振り返れば 誰かの声 誰かの影
 どこまでも ついて来る 世間の影
 つかまえて 勇気づけて 俺を

      (「孤独な旅人」エレファント・カシマシ)

 僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
 正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
 僕は街にのまれて 少し心許しながら
 この冷たい街の風に歌い続けてる

        (「僕が僕であるために」尾崎豊)


最近では、FBやMixiなどで他者にコメントを書くときに「肯定的な」コメントしか書けないらしい。リアルと結びついているために、否定的なコメントや相手の心象を害するようなコメントを残すと、リアルな世界での付き合いに影響すると。結果、必要以上に他者を誉め、ポジティブであることを肯定する/強要する空気が支配し始める。

果たしてネットは僕らを解放してくれるのだろうか。ネガティブさを知っているからこそポジティブであることを肯定したいと思うけれど、ポジティブであることが強要されたり、ネガティブさを避けるという理由のためだけのポジティブさというのは、やはり何か違うのだろう。


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