ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

世界人口70億人のもつ意味と「キャリング・キャパシティ」

2011年11月03日 | Weblog
世界の人口が70億を突破したという話もしくは頭で考えすぎていけないという話。

2011年10月31日、国連は世界の人口が70億を突破したと発表した。この日に生まれた人は皆、世界人口の70億番目の人と認定され、地震と原発の被害地・福島でも70億人目の赤ちゃんが誕生した。

地球が誕生したのが約46億年前。40億年前くらいに生命が誕生し、ホモ・サピエンスが生まれたのが約20万年前。当時存在したホモ・サピエンスは1万人程度だったという。

19世紀初頭の人口は約10億人、それが産業革命を経験したことで20世紀初頭には20億人となる。10億人増えるのに約100年というペース。それが1960年代には30億人(10億人増えるのに60年)、1974年には40億人を突破(10億人増えるのに14年)。その後もそのペースは落ちることなく、1987年に50億人、1999年に60億人、2011年に70億人と増え続けている。

世界の人口はここ200年強で7倍に膨れ上がっており、2050年には90億人を突破すると予想されている。

そのことの意味について面白い記事があった。

 数字で考える「70億人」の意味 ? WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

ガイアの視点から捉えた場合、人間は食物連鎖の頂点に立つ生物の1つだ。この「ヒト」と同様に頂点捕食者となる陸生の肉食哺乳類は約170万個体いるとされる。他の頂点捕食者:1に対してヒトは4000以上となる。圧倒的に数が多い。

「地球の陸域純一次生産量(地球の陸地で生産されている有機物の絶対量)のおよそ20%は、人間が利用するために採取されていることになる。つまり、地球の陸生バイオマスで見ればわずか0.00018%を占めるにすぎないヒトが、陸地で生産されている有機物の20%を利用しているのだ。」

しかしこの資源の利用量も偏在している。僅か2%の人間が世界の富の1/2をもち、50%を占める貧困層は全体の1%の富しか持っていない。

もし仮に世界が経済成長を続け、「現在ごく一部の人々が享受しているレベルの物質的生活を全人類が送ろうと思ったら、地球が4つも必要になる」のだ、と。

こうした人口爆発と環境への負荷、あるいは日本をはじめとした先進国の出生率の低下を考えてた時、1つの議論が持ち上がる。それが「キャリング・キャパシティ」という考え方だ。

「キャリング・キャパシティ」というのは、「環境収容能力」とも呼ばれているもので、森林や土地などの環境に人手が加わっても、その環境を損なうことなく、生態系が安定した状態で継続できる人間活動又は汚染物質の量の上限を指す。

こういうとキレイな言葉に聞こえるが、これが意味することはそうではない。一定の空間・地域の中で個体数がキャリング・キャパシティが上限に近づくと、多くの動物は「生殖抑制」、「子殺し」、「共食い」などの方法で個体数を抑制し始める。つまり種の保存のために、無意識的な抑制活動を前提とする言葉だ。

この考えは決して、人間を例外にしているわけではない。

例えば堕胎(中絶)は現在でも行われているし、間引き(嬰児殺し)、姥捨てなどの行為も時代を遡れば存在している。日本の出生率の低下も急増した日本の人口に対して、キャリング・キャパシティ内に収まるための(種としての無意識的な)抑制活動の結果だと言えなくもない。

確かに日本の人口は江戸時代には3000万人、明治時代でも5000万人程度だった。それが現在では1億3000万人。富そのものは増加したかもしれないが、その環境の収容能力を超えているとしても不思議ではない。すでに日本の人口は減少しつつあり2050年には1億人を切るといわれている。

このことに危機感を抱いている政財界は「少子化対策」や海外からの「移民受入」といった対策を求めている。しかしその背景にあるのは「労働力」の確保や「生産力」の確保といった経済的な理由からだ。そこにはそこで暮らす「人」の視点はない。

この「キャリング・キャパシティ」論は、「結果」として分析する分にはそれなりに面白いし、「見えざる手」と同様、僕らの中のアンコントローラブルなものとして存在していると考える分にはいい。しかしこの言説が積極的な意味を求め始めた時、それは危険な可能性を孕んでいる。

それはナチスやルワンダ内戦で行われた「ホロコースト」さえも肯定しかねない。キャリング・キャパシティを維持するために、特定の「民族」を犠牲にすることで別な「民族」が生き延びたのだ、と。

僕らの「合理的思考」は決して正しい答えを導く存在ではない。「優生学」と同様、合理的な理屈が付けられてしまえば、残虐な行為でさえも「正当化」してしまう。「倫理」的な視点から、あるいは(文化的な制約を超えて)人間的な「誠実さ」から問われなければならないのだ。

しかし地球という「リソース」には限りがある。70億の人間をどのように養っていくのか―大きな問いがつきつけられている。

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト / 古田 隆彦 - ビールを飲みながら考えてみた…




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