憲法9条の戦争の放棄は美しいのだが、まだ周りの国がそうじゃない(非戦を掲げる国じゃない)のに無理だろうと思う。
専守防衛を掲げる以上は、その相手の最初の攻撃を完璧に防ぐための備えを持っていることが大事な条件になるだろう。
軍隊を持つというと、すわ徴兵か戦争かということが想起されて安保反対というのが、私が生まれる前のこと。
鉄壁の防御体制があるのであれば、堂々とその宣言を持つ憲法は自分達のものだと言えるのだが、今は正直駐留アメリカ軍の報復能力頼みなのではないかと感じている。
今日、本屋さんで写真の塞王の楯という本を見かけた。見かけて帯を読んでみたら、決して落ちない城を作れば、戦争は終わるということを夢想する主人公と、最強の殺戮兵器の大砲を作れば、これもまた一度の惨劇の後に人は愚かさを知って戦争は終わるということを夢想するものが現れて対峙するようなあらすじが書かれていた。
矛盾の語源を連想させるあらすじに、憲法9条の戦争放棄という条文を持つのならばという心情が動き出した。
最近、よく北朝鮮からの発射実験のニュース速報を見る度に、『撃ち落とせや』と思わずにいられない。
遺憾なんて言ってる場合なのだろうか。
その一撃に恐ろしいものが載っていたら?
制御が完璧に出来るのか?誤射や制御不能に陥ることもないのか?と常に不安を感じる。
届かせることが出来ることを誇らしげに繰り返しているのである。喰らうことはないという楽観的な気分にはなれない。
もし向こうが本気で打ち込むのであれば、この国の機能を麻痺させるような場所を狙ってくるであろう。
首都圏、関東圏の密度は怖いのである。
なので発射される度に、こちらも迎撃を訓練と称して行うべきと私は思う。
過激?だろうか。
従軍経験がある者をベテランと呼び、讃え(ベテランデイや野球の開始前の国歌斉唱と地域に住むベテランの紹介は恒例)、祝日でもない平日から国旗をはためかせるアメリカを見たとき、国民を嫌戦化させ、自分で国防を考えられないように仕向けられてしまった敗戦という歴史を呪いたくなる時がある。バランス感覚として自国の意思での国防が完璧じゃないのに、戦争放棄は難しいでしょう。
塞王の楯、どういう結末と読後に何を思うだろう。今はkindleのサンプルをダウンロードして数頁読んだだけである。
直木賞受賞って書いてあった。
興味湧きませんか?
(読んでもいない本を堂々と語ってみました。笑)
今村氏の著書は読んでいませんが、直木賞受賞後テレビで時々見かけます。
弁理士、特許の話の本にも何かを感じたんですけど、戦国時代の話は題材でガッツリ考えさせられるので好きです。山本兼一の火天の城に通じるようなものかと思ったら、京極高次というので更に未読な武将なので、興味津々です。メルカリでも高いままなので、kindleでの購入をすると思います。
とうとう買ってもいない本を堂々と語ってしまいました。笑