以前から、「選挙は必ず行くべし」と思い続けているのだが、その原始的な思いがどこから来るのかを考えてみた。
私は以前からこう考えている。
もし3人の世界で、私以外の2人が宰相になりたいと言い出し、私に決めてくれと言ってきた。
その時の行動はどうなるか?というと、2人のうちの一人を選び、一人を適格じゃないとして落とすという二つの行為を同時に行うことが「選ぶ」という行為そのものだということになる。
一票は入れなかった方にもしっかりと陰を作るのである。
もし、完全無欠な人格の人間がこの世にいるとしたら全票を得票出来たはずなのに、そうではない状況に気付かせることができる。
別の候補に投票することで、あなたは完璧な人間ではないと。だから投票した人が落選したとて自分の力が及ばないだなんのということはない。
最高裁の裁判官の信任投票というものがあるが、あれも同じである。
よく知らないということをどうやって表すかは、個人に委ねられている。
裁判とは、全ての難解な判断のし難いものに、理屈を重ねて、一つの解を出すという人智の中でもかなり上等な分野である。
三権分立、立法-行政-司法の各々に、国民は選挙、世論形成、国民審査の3つで関与することになっており、これらを放棄するということは、「国民(市民・県民(都民・府民・道民))なんだけど、国(都道府県・市)に対して何も言えねぇ」と北島康介状態を公言するような愚かしいイメージになってしまうのである。また国民審査は「裁判官、俺はあんたたちのこと、信用してるよ!」というのも単純で面白いが、「×を書かせるという面倒な行為をさせることを厭わないぜ」という馬鹿っぽい意思表明を実践しているだけかも知れない…。
最高裁裁判官の信任投票では、受け取りたくない人はそのように申し出てくださいと書かれていた。人に不適格の烙印を押すような行為はしたくないという意思かもしれないが、これも一つの適格判断であり、裁判事例が全て自分の想像以上によく解決され、自分の考える正しい行為が進み、世の中にその判定に対しての好評が満ち溢れているような状態ならば、無印にすればいいし、気付かせたいなら行為で示す必要があると考えている。まぁ単に機能しているかどうかなんだけど。
しかしその日はいつくるかは分からないので、用事が立て込み、投票に行けないこともあるでしょう。
だから期日前投票は存在しているのだけれど、もっと改善して欲しいというのであれば、表明すればいいだけのこと。
ここでグダグダというようならば、それは子供と思われても仕方がない。
ネットで認証し、どこからでも投票できるようにして欲しいなら、そういう改善を考えている候補を選ぶか、自分がその政策を携えて立候補すればいいだけの話だ。認証しつつ無記名投票をどうやって実現出来るかが難しいかも知れないけどね。
よく投票率が悪くて民意が反映されていないというような言説が飛ぶが、どういうことなのだろう?
投票しないという行為は私にしてみたら、「決められたら何でも従います」という意思表示と受け取る。世論形成には積極的だし、世間話もよくするが選挙には行かないっていうのは一体どういうことなんだろう?と勘繰りたくはなる。
分からないから投票しないということもあるのだろうが、ある程度は分かるでしょ?
気になることに対して候補者は少なくとも一つの判断をしたことを表明している。
それが党に属していることだけで感じてくれということもあるだろうが、それを判断する義務がどうしても生じることにはなる。
無所属なら尚更主張があるのだろうと耳をそばだてて聴いてみることもしてみたらどうだろう?得心がいく人が見つかるかも知れない。
4人の世界で二人が宰相になりたいと立候補し、私と友人Bに決めてくれとお願いされて辞退したら、友人Bが決めた候補者の立法を全て受け入れますという意味になる。
それが嫌なら投票すべきだし、そういう行為で関与するべきなだけだろうと思う。
私は投票している自分の行為が正しいし立派だろ?などとは決して思っていない。
単純に棄権行為がどういう意味を持つのか分かってんのか?という体(てい)でしかない。
民主主義がどういうものかをよく考えてみると、あの威厳のあるお爺さんや、髭を聳やかした社長さんや、あなたの考える偉いと思えるような人とも同じ一票を自分も持っている(※)ということに尽きるのである。
※というこの部分はある本を読んで気付いたことなので、その本の話はまた別の機会に書く事にします。
私は以前からこう考えている。
もし3人の世界で、私以外の2人が宰相になりたいと言い出し、私に決めてくれと言ってきた。
その時の行動はどうなるか?というと、2人のうちの一人を選び、一人を適格じゃないとして落とすという二つの行為を同時に行うことが「選ぶ」という行為そのものだということになる。
一票は入れなかった方にもしっかりと陰を作るのである。
もし、完全無欠な人格の人間がこの世にいるとしたら全票を得票出来たはずなのに、そうではない状況に気付かせることができる。
別の候補に投票することで、あなたは完璧な人間ではないと。だから投票した人が落選したとて自分の力が及ばないだなんのということはない。
最高裁の裁判官の信任投票というものがあるが、あれも同じである。
よく知らないということをどうやって表すかは、個人に委ねられている。
裁判とは、全ての難解な判断のし難いものに、理屈を重ねて、一つの解を出すという人智の中でもかなり上等な分野である。
三権分立、立法-行政-司法の各々に、国民は選挙、世論形成、国民審査の3つで関与することになっており、これらを放棄するということは、「国民(市民・県民(都民・府民・道民))なんだけど、国(都道府県・市)に対して何も言えねぇ」と北島康介状態を公言するような愚かしいイメージになってしまうのである。また国民審査は「裁判官、俺はあんたたちのこと、信用してるよ!」というのも単純で面白いが、「×を書かせるという面倒な行為をさせることを厭わないぜ」という馬鹿っぽい意思表明を実践しているだけかも知れない…。
最高裁裁判官の信任投票では、受け取りたくない人はそのように申し出てくださいと書かれていた。人に不適格の烙印を押すような行為はしたくないという意思かもしれないが、これも一つの適格判断であり、裁判事例が全て自分の想像以上によく解決され、自分の考える正しい行為が進み、世の中にその判定に対しての好評が満ち溢れているような状態ならば、無印にすればいいし、気付かせたいなら行為で示す必要があると考えている。まぁ単に機能しているかどうかなんだけど。
しかしその日はいつくるかは分からないので、用事が立て込み、投票に行けないこともあるでしょう。
だから期日前投票は存在しているのだけれど、もっと改善して欲しいというのであれば、表明すればいいだけのこと。
ここでグダグダというようならば、それは子供と思われても仕方がない。
ネットで認証し、どこからでも投票できるようにして欲しいなら、そういう改善を考えている候補を選ぶか、自分がその政策を携えて立候補すればいいだけの話だ。認証しつつ無記名投票をどうやって実現出来るかが難しいかも知れないけどね。
よく投票率が悪くて民意が反映されていないというような言説が飛ぶが、どういうことなのだろう?
投票しないという行為は私にしてみたら、「決められたら何でも従います」という意思表示と受け取る。世論形成には積極的だし、世間話もよくするが選挙には行かないっていうのは一体どういうことなんだろう?と勘繰りたくはなる。
分からないから投票しないということもあるのだろうが、ある程度は分かるでしょ?
気になることに対して候補者は少なくとも一つの判断をしたことを表明している。
それが党に属していることだけで感じてくれということもあるだろうが、それを判断する義務がどうしても生じることにはなる。
無所属なら尚更主張があるのだろうと耳をそばだてて聴いてみることもしてみたらどうだろう?得心がいく人が見つかるかも知れない。
4人の世界で二人が宰相になりたいと立候補し、私と友人Bに決めてくれとお願いされて辞退したら、友人Bが決めた候補者の立法を全て受け入れますという意味になる。
それが嫌なら投票すべきだし、そういう行為で関与するべきなだけだろうと思う。
私は投票している自分の行為が正しいし立派だろ?などとは決して思っていない。
単純に棄権行為がどういう意味を持つのか分かってんのか?という体(てい)でしかない。
民主主義がどういうものかをよく考えてみると、あの威厳のあるお爺さんや、髭を聳やかした社長さんや、あなたの考える偉いと思えるような人とも同じ一票を自分も持っている(※)ということに尽きるのである。
※というこの部分はある本を読んで気付いたことなので、その本の話はまた別の機会に書く事にします。