萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

停電と節電と未来について

2011-04-04 07:01:45 | 日々の疑問
翌日の停電の中止(通常の電力供給で足りる)から、翌週の月曜日までの停電中止までが発表されるようになってきました。
Yahooのトップでは東京電力の電力使用状況が更新され続け、現在の電力使用量が分かるようになりました。

日本人という民族は、予定の立て方が緻密なため、「停電の予定だけでも先に教えてくれ」ということでこの処置、やっと平日の稼動を中心の告知に至ったんだと思います。

本来のピークに対応した処置としてはありうる対応ですが、停電の中止が慢性化していくと自分のグループは押さえていても、自分のグループ(+副番)は、今日は第何時間帯にあるのかが頭から抜けていっています。

この電力使用量、おそらく気温との関係で空調機能という部分と外気と内気の気温差で発動する冷蔵機能の兼ね合いから電力の使用量と去年の同月同日の使用量を基に算出(はじかれ)ているものと思われます。生産と企業活動はおそらく去年のままと想定されているでしょう。

ただ、条件が違うはずです。。。

①被災地区が厳然と存在し、電力を使いたくても使えない。
②エコポイントの蔓延で少しは消費電力の少ない家電が増えている。
③企業もフル稼働するまで生産を戻せていない。部品供給や逆に停電の影響で。
ここまでが状況の基礎条件。

次に・・・・
④電車の運行状況を完全には戻していない。西武線は未だに急行を走らせていない。室内灯を消す。暖房を入れない。などの節電運動が追加され続けている。
※4月4日からダイヤはほぼ正常の運転に戻るようです。ニュースはこちら
⑤節電ムードが広まり、おそらく各家庭での基礎的な電力使用が低くなっている。店舗も看板・電飾・空調温度・室内灯を落とす、間引くなど。。。夜の街の風景は一変した。
⑥また、これが実は重篤なのだが、節電が齎したものは、経済・消費活動そのものの萎縮。自粛・不謹慎というムードで相手の行動を封殺しかねない意見の跋扈(ばっこ)である。
これらは努力的なベース部分と牽制によって生まれてしまった条件。
営業しているお店でも「売上の○%を義援金にさせていただきます」という看板なしにはどうも営業が出来ないというような雰囲気。エンターテイメントや娯楽の類は後ろめたい気分での興行となってしまっています。営業時間も短くなりましたね。

節電ムードがあるからですが、目指すべき社会に向けての根本的な解決ではないように感じます。電車の運行の間引きなど、、、本来ならこの一方的な過小サービスは運賃の値下げで反映させられるべきです。電力の供給を受けつつですので、利用者には運賃の値下げがないと辻褄が合いません。
いくつかの部分に思い違いが存在することも事実なのです。よーく考えてみてくださいね。全ての負を一方的に消費者が被っていることに繋がっていないかは考える必要があります。

また、前から何度か書いていますが、
私にはこの停電、ピークの持ち回り制がいいのではないかと思っています。

ピークが予感された場合、順番に停電を受け持ってもらうことにするのです。
それまでは停電はしない。もしこれで節電ムードが壊れ、一気に使用量が元通りになるようなら今までのように戻しても構いませんが、一旦輪番を別の運用方法に変えてはどうかと提案したい。そこには予測が必要なので、天候面、産業面、時節柄、地域の状況、電力供給側の状況から予測を繰り返していくことが必要です。そこには東電、天気予報士、厚生労働省や文部省、経済産業省などの合議で予測してください。節電での回避ができるようになることができれば、順番自体が廻ってこなくなるので、体感しやすいはずです。
で、”必ず”順番に廻ってくるので平等でもあります。

もう一度書きますけど、第1GのAからピークが予感された場合、その不足量の予測規模からどの副番もしくは次グループの第2Gのどこまでを停電させるのかをできれば半日前に知らせるようにしてはどうだろうか?という提案です。
次にピークを予測した際は、停電した次のグループ+副番の続き副番から停電することにして持ちまわるのです。
フルーツバスケットのようにぐるぐると時間帯を動かし続けている時にいきなり「今日の第○時間帯は停電します」だと、下手すると同一グループに当り続けることも起こりうる。
そうすると「下手に平等を考える」計画者は、毎日同じ時間帯を使用量オーバーが予見されなくても停電にしてしまう可能性が高い。
なので確実に落とすグループを順番に担当させる当番制にすれば、1回停電をすれば当面はなくて済むと考えることが出来る。そして一定の有識者間での合議を義務付けて欲しい。空調の適正温度提示、放送での電力使用抑制の呼びかけなどと掛け合わせれば、その指令で多くの電力使用の伸縮ができ、全体での機能不全をなんとか凌いでいけるのではと思いたい。

自分の停電の順番が急速に近付いてくるような状態ならば、『もう一度みんなで節電をしっかりとしよう』『他の取組もみんなで一生懸命考えて取り組もう』という風潮が高まるというのでどうだろう。

<<ピークを避けるということ>>
また、みんなで休日を土日にしていることも問題なのだ。生産活動、企業活動を月~金に集中させることを行い続けていることも、五十日(ごとおび)を給料の支払日としていることも、月の1日から月末を月の最終日と全企業で決め続けていることも、もしかしたら全国一律で祝日を決めていることも、国民全体でGWやお盆という日にちを決めている習慣もである。風物的なことを阻害しかねないが、結局はみんなでおなじことを同時にしようとすることが全てピークの元をつくるのだ。それは日付・曜日だけでなく、一日の中の時間でも一緒。同じ時間帯に勤務し、同じような時間に出退勤をしていること、通勤ラッシュの出現も全てだ。なかなか実現しない時差出勤、今こそやるべきときである。


この問題は、東京電力の原発事故に伴う電力供給の最大出力不足が問題なのであって、ピークをみんなで作らないようにするには?というのがテーマなのである。ある意味考え違いはしないでもらいたい。節電をすることで被災地へ電力が廻るということを想像しているかもしれないが実はそうではない。

何度でも云う。東京電力の供給量が尋常でなく落ちた。なので供給できるギリギリのところまでは問題ないのだが、蓄電ということがなかなか出来ないこともあり、一時的な供給量を越えないようにすることが課題になったのである。

<<それとは別のことなのに・・・>>
確かにナイターは電力使用量で試合開催の前後を含めた大きな電量使用のピーク因子になりうるのだが、企業の活動や国民の生活が止まった時間帯に行うことを前提にすれば、ピークとは離れる。でも、この話は、だんだんこのように解釈されるようになった。『こんな時期にチャリティーでもなく、○○しているなんて、なんて暢気な人達なんだ』という具合にだ。

○○は、どんなものでも当てはまる。プロスポーツも、番組放送も、グルメ堪能も、おしゃれも、余暇も、気分転換も、芸術だって。。。。今それをするべきか?という話に何もかもが押し込められてしまう。


少しだけ大袈裟になりつつある不謹慎というモード。今このような意見を繰り出すことが正解かどうかはわからないが云っておかねばなるまいと思って書いている。

4月1日の朝、途中まで聞いていたNACK5、大野勢太郎のアンケート調査で、「原発事故は人災か天災か」というアンケートに「電力は必要なんだ、だから原発が必要であるのも事実。津波が起こることを想定していなかったのは人災だが、予想を超えた津波がきたことは天災でもあることとも思える」(うろ覚え)というアンケートの投稿に対して「じゃあ、(このアンケートに答えた人)の住む古河に原発を建てましょうか」と大野さんが返していて、言論の封殺を行っている人は(無意識にも)この人なんじゃないだろうか?とさえ思えてしまった。初めから意見を押し付けるつもりならば、アンケートなぞとらなければいい!人災だという予定調和な結果だけを求めているなら、本気で必要ない!こういう意見収集を数字で見せて、民意だとか云うのはまやかしだし、民主主義ではない!
逆に「経済が沈滞したままでもいけない。被災していない人まで萎縮しない方がいい」とも。これではいいトコどりな意見にしか思えない。(電気なしにどうやって放送するの?大野さん?放送には優先的に電力をまわすということが前提ですか?)

実は正論ばかりをつないでいくとおかしなことにもなるのである。意見に矛盾が出るのは仕方がないことでもあるが、ある部分では押し付けるムードそのものが怖い。この矛盾を避け続けると、言論と思考は全て萎縮していかざるを得ない。ある種デフレにも似たスパイラルだ。恐慌とはこのようにして起きるのだ、とも感じたのだ。

ラジオは電池やバッテリーで聴いているが、だから節電か?と問われれば、”○○に比べれば”ということでしかなく、”電気そのものを利用していないものなどほとんどない。”ということは自覚しなくてはならない。電池には作った電力を流し込んで貯めているものであるし、電力と無縁では決してない。車のバッテリーの駆動はもちろん走行、ガソリンの消費を前提に成り立っているのだ。

放送そのものを作成する側・放送を送信する側が電力を使用していないわけではないし、それを差し置いて、一方的に意見を押し付けるのはどうかと思う。
「一定時間、放送を自主的に停止していきます」という時間帯を放送局毎に設けるなどの方策を採り電力を抑える企業努力を行っているというのなら、、、、その上で発信しているならいざ知らず、”節電をしよう!”と「電気を使った」放送で訴えることは絶対矛盾しているんだってば!電気の使用量が多いと云われた夕方。その時間帯の放送を各局が持ち回りで放送の自粛をされたらどうだ?そうすれば、テレビを消す家庭だって出てくる。ラジオを消す家庭も出てくるはずだ。

だから、これを云い始めると、絶対負のスパイラルに陥るのだ。(本当だ!自分も容易にはこの呪縛から抜け出せないや)

原発は怖い。放射線は怖い。それはわかる。事実と向き合うことと、希望につながる未来を語ることは微妙な行為である。本気で経済の萎縮がまずいと思うのであれば、正常に生活できる分野にまで萎縮する必要なんてないと私も心から思う。その前提が何だったのか、それはやはり”安全に・どこでも・どんなときでも”電気が使えるという条件が存在することが条件だったのだ。

”オール電化”の発想は停電をしないことを前提だったはずだし、東京電力が進めた電気を使ってもらうことで業績を伸ばそうとした表れである。計画停電とは東京電力にとっては業績そのものを落とすことを自ら決断せざるを得ない状況なのだ。未来は電力の供給量の一定以上の捻出があってこそ豊かなものになる。

そう、よく考えれば電気を売ることで東京電力は企業として成り立っている。供給量が落ちたとて、目一杯使ってもらえることで売上が維持される。想定以上の節電ムードであれば、東京電力はやはり「電気は使ってください」と売り込みに来るはずだ。彼らが企業としての存立を成り立たせたいのならば。。。

皆さんの考えていることは予想がつく。売上が落ちても成り立つ、消費電力の少ない社会であれば、「原発は要らなくなる」と言いたいんだろうと。

そして電気を使うおよそ全てのものを悪として感じてしまう世の中になった。メールや電話、待機電力に、電力を利用するプロスポーツ、もちろんパソコンにこのブログもそう感じているであろう。節電とは段々”生活を節約する”ことにすり替わってしまっている。
それは違う。それでは今までの社会を、震災と今も無縁の国や地域の生活や文化も全て否定してしまうことになる。無駄はあったかもしれない。そのレベルの話がどこか歪に(いびつに)曲がってしまった。自分が好きでないもの・無関係なものは、全部”無駄”と感じてしまってはいないだろうか?状況が混沌としてきたせいで、すごい相互の牽制が働きすぎていると思う。

それでは、次は「原子力」以外の発電方法で、この先の生活や復興事業や進歩を賄えるのかという議題に繋がる。
化石燃料と呼ばれているもの、資源という類は無尽蔵なのだろうか?この地球上にエネルギーと呼ばれるものがどれほど埋蔵されているのかは分からない。しかしそれらを知恵として安全に利用しようとしていくのが未来ではないのか?電力というものをどこかでまだ私も含めた全員が誤解している。無くてはならないもの。社会のベースになるもの。そうだったはずだ。全ての前提だったはずなのだ。それをどこまでの安全性を高めて、かつ効率的に取り出すことができるかが必要不可欠な技術なのだ。できればそう考えて欲しい。私もそう考えるようにする。単純に「原子力を止めろ」だけでは、この後の未来はこの基礎的な電力のベースが希少になっていく(と思われる)エネルギー資源に頼り続ければ、一方的に高額に昇っていってしまい、生活が立ち行かなくなると思わざるを得ない。安全に高温度を得られて蒸気機関をフルに動かし制御できる物質が他に見付かれば別だが。。。。水力や風力とは別に、高温度を得られるものとして石炭、石油、そして原子力に辿り着いた人類の歩みは本来なら原子力を制御できる技術にもっと邁進すべきだった。その投資は論文で安全を論じきることではなくて、実際に安全技術への投資と革新を続けるべきだったのだ。
原子爆弾被爆国でかつ資源の少ない経済大国だったこの国では、その安全を推し進める進歩の歩足スピードが弱まったのである。原子力というものへの後ろめたさからだろうか。

後ろめたいという気分だけで覆い尽くされるのであれば、単純に云えば、もう進歩は無い。そう思うことに良心の呵責を感じる人々はしっかり行動に移していたはずだ。
エネルギーの還元率の向上、それをやり尽くすことには限界もある。しかしベースには安全が必要である。追い求めるものはなんだったのか、東海村の事故、中越地震のときの柏崎、色々とあったではないか。やはり安全を根幹に求めるべきだったのだろうと思う。

この先、どういう行動を取ることが正解かなんて、それは自分で決めることだ。自分自身に呵責の念が生まれないように行動すること、そして堂々としていればいい。思ったことを各々のレベルでしっかりやり遂げるべきだ。

だけど非被災者が単純に悲観ぶっていたって仕方ないのだとも思う。

働き方の模索も始まった。集団で活動する場所と時間を共有する職場という意識を、以前はSOHOという言葉だけで当時多様な働き方の模索は上手く検討・実行に繋がらなかった。あの試みが今また脚光を浴びているようだ。記事参照

寄付金に税金の還付もある。国税庁のページ
心に留めておいてもらいたい。
法人税の方はこちら
免税・税控除は決して卑怯なことではない。その重石を取れることでより多くの寄付金ができるようになると考えるべきだと思う。

我々働ける世代は叡智を結集すべき時がきたのだ。お互いに模索し続けようではないか!
ただし、これも付け加えておく。人間なんだもの、楽しんだっていいんだって!笑ったっていいんだって!何もかも泣き顔で過ごす必要なんてどこにもない。そっちの方こそ偽善だ!



とりとめも無く書き連ねたが、あまり意見としてまとまらなかった。

でも公開します。長文失礼!
コメント (6)