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「方丈の孤月」 梓澤要 新潮社

2019-06-24 | 日日是好日
 
 
 
梓澤さんの創造の泉は歴史の隙間を快い物語で満たしてくれる。「方丈記」が鴨長明の血肉になって動いている。読んでよかった。
 
関心があってもなくても、学校で習った「方丈記」を読んで鴨長明さんの経歴についてもおぼろげには知っている。有名な書き出しも。 「ゆく川の流れは絶えずして」、時代を映しながら自己と語り考える。読む人の流れも絶えずしてこの随筆は現代にいたる。
いや面白かった。 一応鴨長明という人の伝記の形なので、面白かったと言っては申し訳ないけれど。 鴨長明を通して語り掛ける伝記になっている。 名高い古典が、現代に生まれ変わったような不思議な親近感がわく。
方丈記に記されたように、京は飢饉災害地震大火、大型のつむじ風と矢継ぎ早に襲われ、鴨長明は直に苦しむ人たちの地獄を見た。 方丈記にはそれがつぶさに記されている。
じかに眼で見てこそ伝えられると書いている。 行動的でどこにでも駆け付けしっかりと見たうえで随筆に書き残した。
災害は、現代でも人災や天災の前の無力さを体験したので、余計に心に響いてくる。 当時も政治に抵抗して、テロも起きた。長屋王の変、橘奈良麻呂の変、ついに保元・平治の乱。
この中で鴨長明が、自分の心中に渦巻く大小の嵐に翻弄される様子が、梓澤さんの想像力でリアルに膨らんでいる。
下鴨神社の禰宜の家柄に生まれ父親に可愛がられ将来も約束されたものと思って育った。だが父は17歳で跡を継いで懸命に勤めた無理がたたったのか早逝し、母親もなくなっていた。
長明は子供の頃から社務を嫌って逃げ出しては糺の森に隠れていた。性質も内向的であったため、父亡き後周囲の評判も悪く跡を継ぐことができなかった、母方の祖母の家の跡継ぎになって神社から出されてしまう。 これが思い通りにならない人生の挫折の始まりで、婿入りした先でもなじめず、糺の森で一目見て心を惹かれた初恋の女に出会い、有頂天で通いつめて子供を授かったが、これも生まれてくることなく母子共になくなってしまった。
家にはいては居場所もなく、琵琶と歌の道で何とか名を上げようとした。 次第に認められ始めたが、位の低さから扱いは下級貴族の位置のままだった。それも禰宜の生まれだという誇りを傷つけられた。
後鳥羽院は熱狂的な歌人で、和歌集を編むために世間の歌好きに歌を詠ませて中から編集者を選んだ。それに入り、喜々としてまさに不眠不休で務めて帝に認められた。 帝もその熱意に応えようとしたのか、裏社の禰宜を紹介された。 就職先が見つかったそれも帝の勧めで、と周りはお祝いムードだったが「裏社」という扱いに喜ぶどころか、見下されたと感じ、失意のどん底に落ち、打ち込んだ「新古今集」の寄人という栄誉からも前後の見境なく逃げ出した。
どんなにか周りを見返したくて、寝る間も惜しんで歌を作ったことだろう、人一倍歌集編纂に勤め、やっと認められたというのに、姿をくらましたのだ。 自分はどこから見てもこの程度かと、もう嫌になってしまったのだ。
鴨長明という人は、常にやりたくないことからは逃げ続け、最後には出家した。 思うと、格式が高く人々から敬われ世話される育ちの良さ目線は、生涯変わらなかったのではないか。
逃げられるというのは、後ろで面倒を見てくれる、気に入らないながら実家があればこそ、と思うが、これは庶民の気持ちで、鴨長明は持ち合わせてなく必要でもなかったのだろう。 子供の頃、仕事を怠けて亡くなった父を失望させた。いつも静かな森で川のせせらぎや鳥の声を楽しんでいた。それで跡継ぎが務まると思ったのだろうか。思うにまかせないとして周りを恨んだ。 腹違いの兄は働き者だったから、その後も由緒正しい格式の高い下鴨神社は一族の物であり続けた。これは私見。
嫡男だからといって、和歌管弦にうつつを抜かし、打ち込んでいては社務は苦しかった。期待通りにこなすのは無理だっただろう。 こういった自分が招いたかのような挫折感が、大原から日野の庵に自らを追い込んで流れていったかようにも思える。 確かにこの世は人を待たない。望みは努力なしではわずかなものであっても叶わない、万一叶っても続かないのが常で、鴨長明はそれを無常観という形で受け入れるようになったのだろうか。 次第に世間というものを知っていった。知識も教養もあり理解は早かった。ただ自分との折り合いをつけるのは時間がかかった。
だが梓澤さんはそうは書いてない。あくまでも鴨長明の心に沿って、方丈の狭い庵の暮らしを見続けていく。筆は優しい。
鴨長明は琵琶の名手だった。琵琶を自らの手で作り愛用した。秘曲とされていた三曲を伝授されるまでになった。だが二曲は覚え三曲目にかかった時に師が遠く筑前に去り亡くなった。 ほとんで覚えていて認定されるだけだったが、それの伝授は叶わなかった。嘆きは深かった。 だが「新古今和歌集」に十首入選した。嬉しいことに敬愛する西行作の歌が九十四首入っていた、西行没後十五年たっていた。
詫び住まいで欝々と過ごしていた時、ふと思い立って秘曲を聞かせる宴を開くことを思いついた。管弦の名手を集め月を見ながら一夜限りの宴を開いた、これは人前で演奏すべきでないという掟に背いていた。 秘曲の最後3曲目は「啄木之音」だった。やっと陽の目を見せてやれた、と夢心地で心が満たされた。これで一つ、執心の元の歌は捨てられる、と思った。
禁を破ったのだがそれは生涯に残る思い出で、それを胸に日夜琵琶を奏した。
禁を犯した報いに琵琶を召し上げられた。しかし反面、帝に琵琶の腕が理解されたのだ。琵琶は代償なのだ、従わせることになれた暴君なのだ。

鎌倉に行ったのは、若い将軍実朝に歌を教えることになったからだった。しかし問答に勢いがあり天分もある将軍と渡り合う気力がなくなっていた。 その上鴨長明という歌詠みは「体裁と見栄ではないか」と返されてしまった。負けた。
ただ書く事だけが残った。 実朝は言った「あなたはまだ自分を出し切っていない」 これでさっぱりした。そして書こうと思った。 鴨長明はそれから「方丈記」をまとめ始めた。
歴史的には空白の多い生い立ちだけれど、作る書く苦しみ魅せられた喜びの中に梓澤さんという作者が二重写しのように浮かび上がる。豊かな想像力がつくりだしたこの一冊は心に長く残るようだ。 平安時代から鎌倉時代にかけて、生き抜いた人の思想が現代にも通じる読み応えのある作品になっている。
まだ未読の作品が残っているのが嬉しい。
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