セピア色の映画手帳 改め キネマ歌日乗

映画の短い感想に歌を添えて  令和3年より

「屋根の上のバイオリン弾き」と中島みゆき

2021-06-05 23:41:25 | 雑記
 「屋根の上のバイオリン弾き」とは、ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人の為の映画と思っていたし、それは、今でも変わりません。
 あのバイオリン弾きが象徴してるのは「神」と僕は思っています、但し、全人類の「神」でなくユダヤ人の守護神としての存在。
 西洋人の考える古代の「神」とは個人を直接救済する存在ではありません、その根源たる救世主の「愛(アガベー)」とは、僕の考える所、仏教の「大乗」と似てると思っています、個人を救う(小乗)のではなく欲に囚われ浅ましい存在である全ての人間(仏教なら衆生)せ救おうという「愛」。
 キリスト教の救世主は作家 遠藤周作氏の「おバカさん」で語ったように見た目は力の無い弱くて善良の塊、白痴のような存在なのです(F・フェリーニの出家作「道」のジェルソミーナように)、神は直接個人を救いません、但し、信じる者には何があっても離れず見守っている存在、それが究極的に個人を救う拠り所となるのです、映画「道」で粗暴(人間)なザンバノが最後、光の無い夜に涙するのは、どんな理不尽を働いても傍に居てくれたジェルソミーナを自ら捨てて神の居ない真の孤独に気付いたからだと僕は解釈しています。

 中島みゆきさんの歌を未だ「暗い」、「女々しい」と思い違いしてる人がいますが、みゆきさんの歌を素直に聞いたなら、これ程、優しくて強くてエネルギーのある人は居ないとファンなら思っているでしょう。
 「生きていてもいいですか」という劇薬アルバムもありますが、その多くの歌は、挫けて倒れた人間の傍に居続けて、「今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩きだすよ」(「時代」)と立ち上がり、新たに歩き出すまで寄り添い続けるという、神のような強靭な優しさで弱い人間を救済し続けているのです、只、見捨てず傍に居続ける、そんな「神」の代行を、その才能ゆえ生身の人間がするという地獄をどのように受け止めてるのか凡百な僕には想像も出来ません。(その苦悩の中、自分を規定してみたのが「ララバイ・シンガー」じゃないかな)

 「何も出来ないけど、歩き出すまで傍に居ることだけは出来る」、その意味で、あのバイオリン弾きと中島みゆきさんは同じ存在なのだと僕は思っています、「うらみ・ます」で始まり「異国」(絶望の果て自殺して「あの世」とやらにに来たけど、ここにも私の居場所なんか無かった)で終わる、世間で最凶と言われてる「生きていてもいいですか」に僕は何回救われたか、どんなに感謝してもしきれません。
 「死ぬ時は前のめりに倒れて果てる」坂本龍馬の有名な言葉、これ程、みゆきさんに当てはまる言葉を僕は知らない。

   教わりし 歌の有り方 作り方
     見上げる千丈 他を知らずや

               寂庭
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