栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

デザイナー受難時代と不寛容社会

2015-10-01 08:02:30 | 視点
 デザイナー受難時代、と言えるかもしれない。
東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム騒動を見ていて、そんなことを感じた。
 佐野研二郎氏のデザインがオリジナルだったのか、それとも盗作、模倣の類かという直接的な問題より、この騒動が広義のデザイン業界(グラフィックス分野に限らず、工業デザイン、建築デザイン等あらゆる分野を含む)に与えた影響は想像以上に大きいのではないだろうか。
この業界に携わる人達、さらにいえば知的生産活動に携わる人達の創作方法をガラリと変える程のショックをもたらしたのではないか。

厳密適用すれば線引きは微妙

 模倣、盗作、一部流用等の問題は昔からあるが、この問題を厳密に適用すればするほど線引きが非常に難しくなる。
例えば画家の工房作品をどう評価するのか。
ルーベンスの絵は彼自身が最初から最後まで描いたものに限定するのか、それとも下絵のほかは工房制作のものまで含めるのか。
 現代になるとあらゆる分野で分業が進み、有名漫画家、多作で有名な作家などはプロダクション所属の漫画家や、専属ゴーストライターがかなりの部分、あるいはすべてを書いているが、著者名には作家本人しか載ってないものが多分にある。
 工業デザインになるとさらにややこしい。
日本車の多くはベンツやBMWにどこかしら似ているし、部分的に非常に似た箇所は結構多い。それらを模倣、盗作と言うのかどうか。

 部分的には似ていても全体像が違っていれば、それは模倣ではなくオリジナルである。
この見解に異議を唱える人はまずいないだろう。
 工業デザインが盗作、模倣の指摘を逃れているのは全体像が違っている、あるいは別機能の付加があるからだ。
 ではコンセプトが同じで、作品にも微妙な類似点があるものにオリジナリティーが認められるのかどうか

 それにしても「佐野バッシング」はとどまるところを知らないようだ。
次から次に類似作品が探し出され、「盗作」呼ばわりされているのは少し気の毒な気がする。
 部分が似てくるのはある意味仕方ない。
しかし、コンセプトも全体像も違えば、それは別作品と認めるべきだろう。
 とはいえ、近年、この境目が非常にあいまいになりつつある。特にデザイン分野で。
なぜなのか、なにが原因なのか。

           (中略)

組み合わせの時代

           (中略)

ネットの普及で制作も一変

           (中略)


ネット社会の負の側面も


 さて、オリジナルとコピーの線引きがどんどん難しくなってくる(今後、間違いなくそういう方向に進むだろうが)と、両者の区分けをするための訴訟が増えることが予想される。

 今回、佐野氏の問題で明らかになったものが2つある。
1つはグローバル化である。
デザインの類似性チェックも国内だけではなくグローバルにチェックすることが求められてきたといえる。

 もう1点は世界中が不寛容の時代に入ってきたということ

           (中略)




 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
  http://archive.mag2.com/0000138716/20150909103000000.html

 「栗野的視点」はリエゾン九州のHPにも収録しています。




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