栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

セクハラヤジで一考

2014-08-13 18:29:31 | 視点
 少し落ち着きを見せたが、ひと頃のセクハラヤジ報道には少々食傷気味だった。この傾向は以前から続いているとはいえ、あまりにも同じ報道の繰り返し、「犯人探し」報道には辟易さえする。「これで幕引きにさせてはいけない」などとさらに煽る論調もあるが、ヤジ一つに「犯人探し」まで本当に必要か。いくらなんでも少々やり過ぎだろう。
 セクハラ問題の意識を高めるためなら、不用意なひと言でいかに傷つくことがあるかを訴え、皆でその問題を考えれるきっかけにすればいいのではないか。それ(啓蒙)をせず、「犯人」を探しだす方が問題の本質をうやむやにする「幕引き」ではないかと思うがいかが。

 この種の問題はともすれば言葉狩りのようになり、行き過ぎると何も言えなくなってしまう。言った方もその言葉が凶器となって相手をどれほど深く傷つけるのかを分からずに発していることが多い。

 実は私自身、似たような体験を何度かしている。恐らく妻も同じだったと思うが、もしかすると私と妻では受け止め方に随分差があったかも分からない。
 私達には子供がいなかったから、「お子さんがいらっしゃらないと寂しいでしょう」みたいなことを言われることがある。それは「今日は雨になり、嫌ですね」みたいな、なんということない日常の挨拶会話のようだったり、時にはこちらの環境への同情だったり、話のつなぎだったりするわけだが、その時々の状況、つまり受け手の側の精神状況によって受け流せたり、そうでなかったりする。
 多くは悪意から出た言葉ではなく、軽い気持ちで言っているわけで、それさえも無知、無神経と咎めようと思えば咎めることは出来る(事実、差別は無知から来ることが多いのだが)だろう。しかし、相手が会話の中で何度も同じような言葉を繰り返す場合は別として、「でも子供がいない分、夫婦の会話が増えていますから、寂しいと思ったことはありませんよ。それぞれに家族の過ごし方はありますから」と軽く受け流している。

 妻の方が男の私より受け止め方は違っていかも分からないし、傷付いていたかもしれない。実際そのことを思い知らされたのは、妻が亡くなる直前に発した言葉からだった。
「子供を産んであげられなくてゴメンね」
今わの際に妻が発した、文字通りの最後の言葉だった。
なんでこの瞬間にこの言葉なんだ、と思ったが、子供を産めなかったということが、妻の心に重くのし掛かっていたのだとをいうことを、その時初めて知った。

 「もし、子供がいたら」と、妻の前で言ったことはない。ことさらに、その話題を避けていたわけでもない。子供がいないことで妻にどこか負い目にも似た感情を抱かせたことは一度もなかったはずだった。
 だが、思い当たる事件が一つだけあった。それは弟が不用意に発した言葉だった。
「子供を作って初めて家族だと思っている」
 この言葉は私に向かって直接言った言葉ではないが、同席している妻の耳にも当然入ったはずだった。

 この時を境に兄弟仲は最悪になった。私は弟と一切口を聞かなくなった。私への反発で私に言うのならまだ許せたが、妻がいる席でそういうことを言う無神経さに腹が立ったのだ。
 妻の様子は何も変わらなかった。その後も、それ以前と変わらず弟家族のことを気遣っていたし、「2人しかいない兄弟なんだから、もっと仲良くしたら」と、よく私を諌めていた。

 妻の死をきっかけに私達兄弟は一転して仲良くなったが、一度だけ弟に、妻が今わの際に言った言葉を伝えたことがある。詳しくは言わなかったし、そのことで弟を責めたわけでもなかったが、なんとなく分かったのではないだろうか。弟も悪意があって言ったわけではないから、反省してくれればそれでよかった。

 今回のセクハラヤジも同じようなものではないかと思う。反省してくださいね、で幕引きすればそれでいいではないか。
 私には旅番組その他でことさらに女性の入浴シーンを放映することの方がよっぽどセクハラだと思うが。これこそ男目線。なのに女性が抗議の声を上げないことの方が不思議だ。少なくとも私には女性の入浴シーンは不愉快なのだが。


 本稿は7月13日に「まぐまぐ」から配信したものです。
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