三十路の食卓

食事の記録・食にまつわるあれやこれや
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『ありあまるごちそう』と『貴子の胃袋』

2011-11-07 00:11:56 | 食とレビュー
〈10月25日の食事〉
朝:カボチャマッシュサンド(メゾンカイザーのカボチャパン使用) フルーツグラノーラ+豆乳 サラダ コーヒー
昼:お弁当(玄米ご飯、豚と野菜の炒めもの、ほうれん草と卵の炒めもの、白菜のおひたし)
夜:焼きチーズカレー(ローソンで購入) 野菜ジュース
帰宅後:北海道土産の緑色のビール

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少し前に映画「ありあまるごちそう」をレンタルして観た。
一言で説明すれば、フード・ドキュメンタリーということになるだろうか。

作って2日で廃棄されるパンは、その国で年間2000tにも及ぶ。
その小麦を輸出し、自国では飢えに苛まれる数多の人々。
食べ物として口に入ることはなく、燃料として暖炉にくべられるトウモロコシ。

或いは。
コストや小売価格を抑えるために、工業製品のように「生産」されるニワトリ。
味は劣るし種もとれないのに、見た目と大きさ優先で作られるナス。

更には。
外国産の安い野菜にかなわず、自国で食べていけずに他国で清掃員となる元農民。

食をとりまく環境は、分かっているつもりになっていても、いざ現実を分かりやすく呈示されると息が詰まるように感じる。
何に備えてパンを作っているのだろう。
誰のためのパンなのだろう。
誰のものでもないパンを作るために、森林を切り開いて畑を無理矢理作り、そうしてまで小麦を育てるのは何でなんだろう。

エトセトラ、エトセトラ。
現実って残酷だ。

観ながら思い出していたのは、中島らもの短編「貴子の胃袋」だ。
女子高生の「貴子」は、テレビが映し出した外国で犬が食べられているのを見て、かつて飼っていた犬に思いを馳せたのを機に肉を食べるのをやめる。
個人レベルでベジタリアンを貫く分にはいいのだが、そのうちに、今まで通り肉を食べる両親を汚らわしいとなじり、同じ鍋を使いたくないとまで言うようになるのだ。
それに対して、怒りが頂点に達した母親は気付かせてしまう。
「命があるものを食べるのが可哀想だと言うなら、米だって野菜だって生きていたものなのに」と。

以後貴子は何も食べなくなり、気がおかしくなって、ついには両親を殺める一歩手前までいってしまう…と度の過ぎたネタバラシしちゃっておりますが。
どうしてこのタイミングでこの短編を思い出したかといえば、アレルギー絡みではない、何らかの思想に基づく偏食は、結局のところ「そういうこと言ってられるから」なのだろう。
食うに本気で困れば、そういうことは言ってられまい。
飽食の、食糧が選べてありあまる世の中だから言えることなのだ。

この映画の原題は、『THE FEED THE WORLD』という。
FEEDとは、食べさせる、食べ物を与える、といった意味のようだ。
『ありあまるごちそう』、秀逸な邦題である。

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