小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

溢れる優しさ、強靭な思考。最首悟が問いかけるもの

2019年11月10日 | エッセイ・コラム

地勢的にS学会のお膝元と呼ばれる信濃町、その駅前にある真生会館に行ってきた。ここはカトリック系キリスト教のパブリシティ的な役割をもつ会館で、多彩なイベントや市民講座が公開されている。以前、竹下節子氏の講座に出席したことや、遠藤周作の小説のモデルとなったネラン神父のことなど、このブログで真生会館のあれこれを書いたことがある。

今回定期的に行なわれている数々の講座のなかで、単発ではあるが最首悟氏の「共に生きる原理の二者性について」を見つけ、是非とも話を聞きたいと思ったのだ。

最首悟という人物の詳細にについてはここではふれない。簡単にふれれば1960年代から70年代にかけて、最首氏はイデオロギッシュな党派性に染まらない、自主・孤高の思想で一部の若者たちの共感を集めていた。マルクス主義の様々な言説により迷走していた筆者にとって、最首悟はまさに思想と行動が一致する模範とすべき先達であった。彼が度々寄稿する『情況』という雑誌が懐かしく思いおこされる。

その最首氏は現在83歳、4人のお子さんをもつ父親だ。3人は独立されたが、今年43歳になる末っ子の星子(せいこ)さんは、ダウン症かつ知的障碍をもって生まれた。しかも8歳のときに両目を失明したので、重度の複合障碍者であると言っていいだろう。

現在、最首さんご夫婦が全力で星子さんを介護し、愛情をそそいでいる。一家の日常は、テレビのドキュメンタリー番組で何度か紹介されたこともある。ご存じの方はいるであろうか?

そうした生活が続くなかで、重度障害者だけを殺傷した神奈川県のやまゆり園事件はおきた。日本中の障害者、この社会で生きづらさを感じる方にとって、犯人の植松聖という青年は、戦慄すべきモンスターであり、八つ裂きにしたい思いをもつのは当然だと思われる。そしてまた、まだ誰も知ることのない犯行の動機、植松自身の真意を問い質したい気持ちを抱くのは、筆者はじめ多くの人も同じであろう。

最首悟は、当事者の父親として、植松聖宛に上記の思いを込めた渾身の手紙を書いた。しばらくして、返事が来た。

その返事の主題は、社会にとって無用の人間をなぜ育てるのか。なぜ殺さないのか、そんなニュアンスもあったらしい。まことに恐ろしい話だが、実際に会うと普通というか、むしろ気弱な青年という印象をもったという。

往復書簡の一部、面会の模様、植松被告に対する思い、事件を生みだした思想背景など、分析した最首氏の記事が、神奈川新聞のウェブサイト『カナロコ』に連載されている。

 ■最首悟さんの手紙 「序列をこえた社会に向けて」⇒ https://www.kanaloco.jp/article/entry-184588.html

やまゆり園事件2年 最首さん、植松被告を訪ねて―
 ▲星子さんへの限りない愛情、無償の情愛があふれている。もちろん奥様の方がそれを超えていて、自然体でこなしているとのことだ。
 
 さて、津久井やまゆり園事件の植松聖について、筆者はこのブログに何回か記事にしている。彼のような人間がなぜ「優生思想」を醸成し、凄惨な大量殺人を犯すに至ったのか・・。それも、自ら生活保護を受給しながら、「生産性のない穀つぶし」だからという理由を基に、最弱者の重度障害者を標的にして次々と殺めた。そのバックグランド、真の動機は何なのか・・。

 

講座のタイトルは、「共に生きる原理の二者性について」というもので、人間の「存在」と「関係性」そして「依存」という事柄、意義にからめた哲学的な内容が中心であった。やまゆり園事件や植松聖との面会については軽く触れられたが、むしろ人間一般の個人の主体性、その応答=責任の限界について深く考察するもの、と筆者は理解した。

中根千枝の例の「タテ社会論」、土居健郎の「甘えの構造」さらに、最近話題になった國分功一郎の「中動態」の要諦、丸山真男の「通奏低音」と「古層」の話も引用された。まさしく、現代社会に問われるべき「人間関係性」について縦横な論議が展開されたといえる。関心の領域が僭越ながら、筆者と同様であり、同時代人として首肯できるものばかり。久しぶりの知的興奮を覚えた。

 簡略して書く。氏のいう『二者性(Diadity)』とは氏の造語だそうで、「日本人が保存する根本構造」であり、前述した「甘えの構造」に通底している(根本的には母子関係をさすとのこと)。

『二者性』はさらに、互換性、相互性があり、日本社会全般においても「甘えの構造」は通奏低音のように伏流している。筆者も異論はない。

また、『二者性』の説明のくだりで、個の存立の成立過程で水平から垂直へのベクトル志向を示唆していた。これはたぶん宗教的な意味での「神」への「依存」乃至「祈り」を含む『二者性』ではないかと、筆者は直感した(そのことを質問した時に、最首氏に申し上げたら同意するように肯いてくれた)。

 

質疑応答の時間になり、筆者はどうしても植松聖のことで確認したいこと、さらに講座に出席したモチベーションを述べて、最首氏の考えを聞きたいと願った。

それは大阪の池田小学校事件の犯人・宅間守とのアナロジーである。この事件も、世間を震撼させた大量殺人事件であり、被害者のほとんどがいたいけな小学生たちであった。宅間守の犯行動機は死刑を受けて自殺することが最終目的だったとされる。確固たる死刑判決目的の大量殺人事件を遂行することで、自らの存在を抹消する。他者の尊厳を、まったく無視した「極悪の自殺論」だ。

精神鑑定を受けて、責任能力を負えるものという医学的診断もあった。自らも心神耗弱も否定し、彼は死刑をのぞんだ。そして、死刑裁定から比較的はやく宅間守の実刑は行使された。

『宅間守精神鑑定書』(岡江晃著)を読んだとき、幼少の頃の特異な家庭環境に注目させられた。外国籍の父親と日本人の母親の間に生まれ、どうやら宅間は望まれて生まれた子供ではなかったのだと察せられる(特に母親からのネグレクト、DV)。

池田小の犯行は、もちろん宅間個人によるものだ。その犯罪、事件性を考えるときに、それを宅間の家庭環境に遠因を求めること、或いは根源的な要因として規定してはならない。慎重さが求められる。宅間の父親・母親の個人情報が漏れたら、二次的な犯罪をも誘引しかねない。

しかしながら、最首悟氏の『二者性』の人間関係に引きつけて考えると、宅間という男は、幼少時に母親からつねに疎まれていて、そのフラストレーションや心のアンバランスを周囲の友人たちにぶつけていたことが知られている(大柄で体力のある宅間は暴力だけでなく、唾、体液などを給食の飲料などに混じり込ませるなど陰湿な悪戯が目立つ)。つまり、宅間には、依存する・甘えられる対象がなく、『二者性』そのものが切断されている環境しかなかった、と思わざるをえないのである。

 

以上のことなどを前提に、この『二者性』に恵まれない場合の幼少時において、人間という個は、その人格形成なり人間関係はそうとうなバイアスや軋みの影響力をうけるのではないか。特に、母親・父親との『二者性』において、子どもは生きづらさ以前の過酷な環境、軋轢にさらされる。

凄惨な犯行をきわめて冷静に確信的に行なった植松聖は、みずからの家庭環境を面会の時に吐露することはあったのか・・。そうした質問を最首氏に投げかけてみた。

植松本人は、そうした幼少の頃のこと、両親のことなどは一言も話さないそうである。父親は教師・母親は漫画家であることは知られているが、マスコミも特異な犯罪であることを鑑み、両親にふれることはタブーにしているようだ、と最首氏は解説してくれた。ただし、父親は自らを追い込んで心身が衰弱して亡くなったらしい(確証はないとのこと)。

予断をもって、植松の犯罪心理を分析することは許されない。しかし、昨今DVや悪質ないじめが目立っている。親と子という、人間にとってプラットフォームというべき人間関係が築けないのは、個人間における『二者性』を超えて、社会問題として捉えるべき課題がありそうだ。最首氏もそのことは念頭にあるのだが、いかんせん事件の判決は11月中にあること、そして裁決は来年3月に確定しているとのことだ。しかるに、確信的な植松は、なんら反省していないし、悔悛の情さえも見せていない。

つまり、事件の全貌、植松の犯行動機、真意などが解明されることなく、池田小事件の宅間守のように植松聖は死刑に処せられるのではないか、と最首氏は危惧していた。11月の判決にともなって、最首氏は新たなコンタクトをとって、植松聖との新たな「応答」をどこかで発表するとのことだ。

このことのフォロー記事が、年内にきちんと書けることを祈りたい。

 

▲駿台予備校で40年教鞭をとる。和光大学教授でもあった。神奈川の地元では1500世帯を束ねる町会長。お元気で若々しい。




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