小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

エコロジーと女性 竹下節子氏にきく

2019年11月12日 | エッセイ・コラム

真生会館で最首悟氏の講座を受講した翌日、同会館で竹下節子さんの講座にも出席した。連日にわたり出席したわけだが、これは偶然の賜物であり、竹下さんのそれはだいぶん前から予約をしていた。(竹下さんのブログに以前、最首氏についての記事を拝読したことがあった)

この日は天皇陛下の即位を祝うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」があったせいか、信濃町駅周辺でも多くの人出で賑わっていた。前日、久しぶりに外出したにもかかわらず、畏敬する竹下さんの話をきけるので張り切っていて、身体も軽く感じられたのは不思議。良い天気のせいだったかもしれない。

受付で講座のレジュメをもらい適当なところに着席。テーマのわりには小生と同じ齢ほどの男性が7、8人ほどいてちょっとほっとする。

竹下さんの今回のテーマは「エコロジーと女性」。女性と銘打っているが、現在の温暖化をはじめ食糧や難民などの問題は、そもそも父権的社会システムの支配構造がずっと続いてきたパラダイム(cf.弱肉強食)から発生した。(女性はとうぜん、弱者のポジションに追い込まれる、制度的に・・。といっても、システムとして女性限定という意味ではないという前置きがあった。⇒小生の超解釈かも)

経済にいたっては新自由主義及び金融資本主義がすすみ、トランプを選出したアメリカが中心となって世界は回っている。格差社会はますます歯止めが効かなくなり、いまや「最貧困層の70%は女性と子供に占められている」とのことだ。

こうしたなかで環境(エコロジー)や生態系(エコシステム)は、多くの複雑系の要素が組み込まれているのでコントロールするのは至難である。竹下さんの用語だと、「魔法使いの弟子」状態になるというが、この意味の説明は失念した。


ところで、今年、ローマ法王・フランシスコ教皇の来日が決定しているが、竹下さんはアルゼンチン出身の教皇にある種の期待をもっているという。

世界を北と南に分けてみれば、経済・生産・消費の中心(ダイナミクス)は北半球に集中している。南半球はどちらかといえば食糧生産がメインとみなしていい。となると、冨は北に偏在しやすく、移民・難民の流れも南から北に動いている。冨+人口=環境汚染も蓄積するだろう。地球全体のエコロジーを考えればアンバランスであり、資産価値や政治経済などのパワーバランスも歪んだものだ。

その意味では、経済破綻したアルゼンチン出身フランシスコ教皇は、以上の地球的規模の様々な問題を、「南半球の視点」から指摘し、発言できる立場にあるということだ。もちろん、キリスト教という宗教指導者であるからといって経済・社会を動かせるものではない。ただしアメリカはじめヨーロッパの先進諸国に対しては、いまもなお十分な影響力・威光を示している。

人間と自然を統合するような、真っ当なエコロジーをめざすとき、教皇からのメッセージは人間の生き方の「全体性」を回復する強い示唆性をもつはずだ。それはイスラム、仏教など宗教の違いを超えて、包摂的な世界観さえも示すかもしれない、と。

以上、小生が自分なりの解釈で再構成した。竹下さんの語ったことの一端でも触れていただけたら幸いである。

▲休憩中にて。竹下さんから恒例のメダイのプレゼント。

その後、休憩があって後半の題目は「内的エコロジー」についてだった。考えようによっては、未知なるテーマ。加えて、スピリチュアル&「死」というテーマに隣接している。高齢化する日本社会と私たち世代の生き方、そのことにも緊密にオーバーラップしている。

疲労化するライフスタイルにあっても、峻厳として、独力で「臨死設計」(※追記)備えなければならない。面倒くさいといって打ち捨てるのも良い・・。新たなる別のステージが現れるかもしれないから。これはもう、齢を重ねた結果の切実なる転換点、オルタナティブとなる(この部分、自己勝手な解釈、願望か? 節子さま、ご免)。

霊的資産、奉仕とホスピタリティ、環境の調律、ナルシシズムや承認欲求の止揚、異なる立場の者同士の補完作用などなど、抽象度は高いけれど刺激的な話が続いた。

オートノミーからテオノミー(cf.ヘテロノミー)の話では、自己責任論をふりかざして個人として自立するよりも、与えられた規範で生きることの人間的歓び、のようなことを仰っていた。たぶん、神との関係だろうか、それは「一対一の関係」で「分かちあうこと」にもつながるという。前日の、最首悟氏の『二者性』にも通じるものがあると思った。

以上、聴き取ったメモから再構成した。まあ「受け売り」ということで、大目に見ていただきたい。

しばらくぶりに竹下さんにお会いし、直にお話をうかがった。おおいなる知的刺激とやる気を賜った。来年の4月には、竹下さんのバロック音楽のトリオ・ニテティスの演奏会が、ここ真生会館でおこなわれるとのこと。楽しみである。


▲当日に上梓された『超死生観ーもう一つの終活』(フリープレス刊行)。死を迎える終活ではなく、死後以降の終活(エンディングならぬスターティング・ノートの作成)。死後をいかに生きるのか?‼ 小生の身体の不調を気づかってくれて嬉しい。元気をいただいた。

※追記:死後以降の終活を考えたとき、既存のライフスタイルなんて「あるようでない」と考えるしかなかった。ならば、老いて死の淵にのぞむとき、死後における自分なりのグランド・デザイン(仮定です)はどうあるべきかを考えた。「虚無か、神の御許か」、そのどちらでもない何かなのか。
果てに、「刻苦」という言葉が浮かんだ。勉励すればいい、ということではない。はやい話、「楽」より「苦」がふさわしいと思った。自分がのぞむ対局のデザインゆえに、ジャンケレヴィッチをもういちど読んで、東西の「死の違い」を確かめなければならない。(2019.11.23 記)





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