小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

久々の見田宗介

2006年04月29日 | 本と雑誌
 

何年ぶりかで見田宗介の本が出た。
「社会学入門」(岩波新書)というこの本は、彼のもう一つの筆名、真木悠介の著作にふさわしい内容と文体だと思うが、彼が筆名を使い分ける理由がいまひとつ分からない。

さて、読んだ感想を残す。
見田の言説はいわゆる社会学者の表現の深度をこえている。

その深さは、文章の彫琢とか徹底した推敲はもちろん、いうべきことの内実の量をぎりぎりに取捨選択した、彼自身のきびしい姿勢に拠っている。
魂の邂逅に向かってひたすら「書く」という行為。そして、熟慮と沈黙。その反復がうかがえる。
見田宗介はことばで表現することの可能性を、文学とは違う方法で実践している人だ。アカデミックな社会学者の立場からいえば、彼の言説並びに論理構成は「教養学部」的ともいえる。入門と書名に謳ってあるとおり、社会学の知見が乏しい人でもそのエッセンスを咀嚼できる。
現代社会の光と闇をみつめ、社会科学のフィルターで透過された今日的な諸問題は、彼の清明な筆致によってことごとく連関し、新たな相貌を見せはじめる。

 

彼の個人的な体験のエピソードも、未来の社会学が切りひらかれるような重要なテーマ性を帯びてくる。こういう学者がいることをよろこびたいし、彼の薫陶をうけた若い人に羨望すらおぼえる。
この社会について、いろいろな分野の学者が様々な「ものいい」をしている。私は内田樹を評価しているが、見田宗介と比較するとやはり「お気楽」において分が落ちてしまう。やはり学者は論理の骨格を語るということか。ただ、内田の方が「お気楽」な分だけ現実的なソリューションを提示し、読むものをその気にさせる。その才能は高い評価を与えねばならない。  
一方、見田宗介に不満がないというのではない。「現代日本の感覚の変容、愛の変容・自我の変容」という章で、比較的若いと思われる一般人の短歌群を紹介し、そこに通底する対人感覚、自己感覚、世界感覚の変容を指摘する。

 

彼らの歌にみられる自己解体感覚や無根拠感、社会だけでなく家族或いは対人における人間関係の不確かさ、希薄さ、空洞化は、現代人の感覚変容をするどく物語る。見田はこういう「テクスト」まで読み込んでいるのだ、と私は感服するが、しかしこれらの作者たちは自傷行為者であれ、引きこもりやニートであれ、まだ若く、自己表現できる瑞々しい感性をもっている。少なくとも「交響するコミューン」に触れるチャンスはある。

 

私が危惧するのは、そうしたものから閉ざされ、意欲も失った、家賃2,3万円のアパートでかつかつの生活をしている多くの「孤独な老人たち」への言及がない点だ。  私はまだ、高度高齢化という現象と諸問題について、優れた社会学的知見に遭遇していない。  「認知症」「介護」「安楽死」など現実的かつ喫緊の問題が先行しているかもしれないが、高度高齢社会への新たな視座を構築してほしい。  
家族関係や「ケア」の見直しだけでなく、この世界の「孤独な老人たち」の「交響するコミューン」を示唆してほしいのだ。


最新の画像もっと見る