小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

私家本・永井陽子の歌集を編む

2019年09月16日 | 本と雑誌

永井陽子という不世出の歌人を知ったのは、詩人時里二郎のブログ『森のことば、ことばの森』を読んだことによる。ブログの《そばに置いておきたい本》という括りのなかに、堀辰雄やベンヤミンの著作に続いて、『永井陽子全歌集』(青幻舎2005年刊)が紹介されていた。

永井の歌集それぞれは、今おいそれと入手できない。青幻舎の全歌集は、高価であるがアマゾンその他で求められる。が、当初売価の3倍ほどになり、貧民の小生は指を咥えるのみ。なんか悔しいのだ。それゆえにネット検索を嚆矢に、図書館や市販の現代短歌のアンソロジーなどから作品を渉猟し、私家本を試作してみようと思い立ったのである。

 

さて、時里氏のブログには、十首以上が引用されてい、ちなみに第3歌集『樟(くす)の木のうた』(1983)からは、以下の五首が採られている。

 生きもののかそけき息にくもりゆく玻璃雛たちは竹籠にねむる
 千載の世に人として在るかなしみをしなやかに抱き日暮れは来たり
 ふりかへりまたふりかへりひとすぢのかなしみのなかへおりてゆく夜
 夜空にも雲あることのあたたかさ馬寮(むまのつかさ)の舎人もねむる
 萩を焚けば夭き日に逢ひし者が呼ぶ陽は落ちて暮れなづむ界より

永井陽子の歌心について、時里氏は次のように記されている。「任意のページを開いても、魅かれる歌がこれだけある。この胸苦しくなるような繊細さ。生きるということと、ことばを紡ぐということが、同義であるような。ことば(歌)という鏡に映る自分にしか、自らの存在の在処がないとでもいうような。

永井陽子の短歌を詠んでいると、歌の毒ということをいつも考える。この毒は必ず歌人は飲まねばならず、同時にそれを解毒するための次の展開を準備しなければならない。毒が身体に回りきらないうちに。ただ、ぼくには、その人が飲んだ歌の毒に、すでに解毒の処方箋も溶かし込んであるように思う。いろいろな思いに誘われる歌人である。」 と、結ばれている。

▲愛知県瀬戸市生まれ(1951~2000)

▲故永井陽子の書

 

文芸批評にとどまらない評論家の関川夏央は、『現代短歌 そのこころみ』という著作で永井陽子にふれているが、下の二首も出色の出来だ。永井ならではの哀切の世界が、言葉の明るいリズムに共振して、たんなる悲しみに終息することなく、気高い憂愁・詠嘆へとみちびかれる。

 木のしづくこころのしづくしたしたと背骨をつたふこのさびしさは
 錠剤を見つむる日暮れひろごれる湖(うみ)よこの世にあらぬみづうみ

次に、現代短歌のアンソロジーとして、ちょっと権威的な書物を挙げれば、永田和弘の『現代秀歌』(岩波新書No.1507)がある。ここでも、多くの有名歌人に交って、永井陽子にも頁が割かれている。歌集『モーツァルトの電話帳』から・・。

 ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

『なよたけ拾遺』からは。

 ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ 

『小さなヴァイオリンが欲しくて』からは、下の二首。

 死ぬまへに留守番電話にするべしとなにゆゑおもふ雨の降る夜は
 父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日

 以上、永田は、永井陽子らしい特長といえる、言葉の対称性、リフレインを強調する作品を紹介している。しかし、永井陽子たらしめる本筋の歌としては、ちと表現の特異性にフォーカスをあてている短歌を選出したのか・・。

ともあれ、著名な作家の著作から、永井の作品をわずかだが載せてみた。これらに限らず、多くの永井作品が歌人たちによって詠まれ、紹介されているはずだ。小生は現在、有名・無名を問わず、永井陽子にふれた人の著作物のなかから(図書館の短歌集なども含む)、短歌以外の俳句も含めて採集(約470首、16句)、さらに増やしていくつもりだ。

これだけの句歌が纏まると、彼女の生きた時代、その生活を想像しながら、歌人として成熟の変遷などを体系的に読みこんでみたくなる。一応の区切りとして、私家版の歌集を編むことも一興だと考えた。

ということで、以下の見よう見まねの和綴じの歌集が出来た次第である。あくまで暫定の試作、私家本であり、簡易かつ即席の和綴じ本。綴じ穴の位置も出鱈目なのは恥ずかしい限りだ。お目汚しになるかと思うが、ご笑覧いただきたい。

 

 

▲とりあえず、自分のための歌集ゆえに表紙は手抜きである。本文をふくめ、プリンター対応の和紙を使用した。

 

    

 

追記:時里二郎の詩集『名井島』について、読み解きが滞っている。我が怠惰ゆえの遅延であるが、『名井島』は独立した詩集であるにもかかわらず、前詩集の『石目』、さらにその前の『翅の伝記』および『ジパング』にも深く通底していることが読み取れた。いまやっと『ジパング』に辿りつき、『名井島』に至るまでの詩的表徴、その言語としての作用をじぶんなりに確かめたいのだ。各作品を再読する必要もあり、少々根気を込めて読み解きたいと考えている。余生の愉しみとして取り組んでゆきたい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。