小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

生権力の浸潤

2006年06月07日 | エッセイ・コラム
 

近年、身近にはピンとこない法案が次々と成立している。
盗聴法、個人情報保護法案・・。直近では、共謀罪。自殺対策基本法案も成立間近だ。
IT社会に対応した法政策だと言われているが、だからといって私たちの生活に具体的にどう関わってくるのか明確にイメージできる人は少ないだろう。これらの「法」は、私たちの生活にいかなる影響を及ぼすのか。それを明確に言い表せる人は少ないだろう。もちろん私にはできっこしない。共謀罪なんて、何が合法でなにが非合法なのかさえ分からない。勉強不足は承知しているが、まともに知ろうとも思わない。

 

さて近代以降、社会そのものが監理コントロール型のシステム社会になったといわれて久しいが、これらの法案の背景には、まさにフーコーがいうところの「相互監視の生ー権力(ヴィオ・プーヴォワール)」が徐々に浸潤してきているのだと思う。私の勝手な理解の仕方だが、それは個人に自己監視を徹底的に行わせるように仕向けさせ、さらに個人同士が相互に監視するようなシステムとして現れる。
そうある日突然にそれは現れる、というふうにあなたは気づく。
法規制だけでなく、規制緩和というカタチでも「生権力」は現れる。
しかし、日常的にはそれは私たちを「抑圧」することはない。
よどんだ空気のように私たちの身体にまとわりつく。
抵抗しようとしても、生権力の主体は存在しているかどうかも判然としない。
小泉政権とかブッシュ政権なら話は簡単だが、生権力の主体は見えないし、その焦点はぼやけいつも移動している。
ともあれ、共謀罪などの法案はほとんどアメリカ経由であり、拒否できない日本の官僚たちがそれを移植しているに過ぎない。

日本でもっとも優秀な人々まで、西洋の知に馴致されたしまったということの証左であろう。
日本の品格を問うたところで何のレスポンスも期待できないし、何も変わらない。


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