小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

形式合理性という仮面をつけた退廃

2011年05月22日 | エッセイ・コラム

 福島原子力発電所事故対策統合本部は5月18日東京電力で記者会見を行った。会見には、細野豪志事務局長や原子力安全・保安院、東京電力の担当者が出席した。

 私はこの会見を約2時間あまりビデオニュースで見た。マスコミをはじめ多くのジャーナリストが主として東電に質問していくというもの。質問は2、3点に集約することが条件らしい。それに対して冷静かつ適確、簡潔に答えていく。それが会見のスキームだ。なかでも東電の担当者は相当な切れ者という印象だが、たんに事務的・冷静に質問にしか答えないし、公表できるデータに基づいて分かっていることだけを話すというのが基本姿勢。

 で、なんで2時間も見てしまったかというと、いわゆる形式合理性に満ちたこの会見がいつか紛糾するのではないか、感情を交えず淡々と答える東電の社員が鋭いつっ込みでタジタジとなるのではないか・・。そんな期待を胸に抱きながら長時間もみてしまったのである。

 東電は5月17日にロードマップを公表したが、1号機から3号機まで核燃料がどういう状態であるかということを分かっているという大前提で作られている。すなわちつっ込みどころ満載のはずである。(1~3号機の核燃料がメルトダウンしたことを東電は認めているのか?)

 しかし、時間の浪費だった。会見はなにごともなく粛々と終了した。
 さて、そもそもこの会見の不思議さ胡散臭さを論ってみたい。
●なぜ東電、保安院、内閣側からの基調報告がないのか。風評被害を気にするならそれを払拭するぐらいの、誰もが聞いても安心するような基本報告をするべきである。
●その場で答えることができる内容のものしか質問しないのは何故だ。ただそれだけのやり取りだけに終始するのは、つまり聞くほうの準備不足。答える側はある種の想定・予断を含む質問については、データとか専門用語を駆使して科学的に答える。また、新たな責任や過去の不備が露見するような事実関係の質問に関しては、即答せず後ほど確認してから知らせるという答えで逃げる。また、言質をとられないように慎重に答える。これでは答える側のあきらかな勝ちだし、どうしても東電の孤軍奮闘ぶりが際立つ。
●質問者はなぜ各社ばらばらに質問するのだろう。例えば想定問答をつくりそのいくつかのシミュレーションに基づき、各社が連携して質問してもいいのではないか。原子炉研究の科学者やその他の専門家への取材を行なってから会見に臨んでいるのだろうか。
まだ、他にもありそうだがこの辺で止めよう。

 私はこの会見を見た後、東電のホームページから「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋の進捗状況について」に関する3種類の文書を入手した。「当面の取組み(課題・目標・主な対策)のロードマップとされた文書は、写真・イラスト・データなども豊富で、色別された資料・チャートも分かりやすい。

 しかし仔細に見ると、矛盾点や不合理な点がすぐ見つかる。

 大きなところでは将来的にこの福島原発を再構築させるという大原則が通底している。(廃炉への道筋、マスタープランが示されていない)周辺地域の汚染浄化の計画がないのは笑止千万。

 細かいところでは、「格納容器に核燃料があり、そこに注水している図」がある。原子炉建屋を全部覆う図面があり、一方で建屋内の高レベル汚染水の循環システム、監視システムが別個に紹介されている。眉に唾をつけたいが、原発敷地内および周辺の地下水汚染への防止策(図で見る限り周囲を地下20メートルの深さで遮水工事する。耐震・耐久・遮水などの評価、さらに深い地下への浸透などは今後の取組みとするらしい)など、個々をみると用意周到であるし形式的な合理性があるように思える。これを作った担当者たちはさぞ満足しただろう。しかし反面、それぞれがどう連関し、時系列的に合理的に第三者に説明できるかどうか、安眠できないほどの不安ももっているはずである。

 政府・官僚にしても東電にも優秀な人材がいるはずであるが、一見非の打ちどころのない形式合理的なものだけに頼り、線形的な思考に基づいた未来設計なり予想をよしとする楽観的な姿勢はいかんともしがたい。昔の旧日本軍のような「失敗の本質」に通じるものがあるような気がする。となれば、それは退廃であり、制度疲労にともなうある種の自壊の前兆といえるだろう。

 ▼一枚の写真をさがしている。3月末にテレビで見たアメリカの新聞の一面トップの写真。外国では震災をどのように報道されているかという切り口で紹介されたもの。小学校の卒業式で、手前が泣きじゃくる男の子。隣に凛として前を見つめる男の子と女の子。子どもとは思えないきりっとした表情が美しい。泣いている男の子にしても我慢してきたものが遂に堰を切ってどうしようもなく嗚咽する様子。家族あるいは友人を亡くしたと思う。

 「未曾有の災害にあっても日本人は誇りと秩序を失わない」という見方を外国人はしたようだが、まさにそれを象徴するような写真だった。私はこの3人の表情を忘れないし、途方もない勇気をいただいた。1ヶ月前ぐらいから震災特集の写真集が店頭に並ぶようなった。私はこの手のものは見もしないが、3人の小学生の写真が掲載さているか立ち読みでチェックしているが未だに見つからない。それにしてもこれまで震災や大事故を特集した悲惨な写真集を買い求める人の胸のうちを理解できなかった。もし、あの写真が掲載されていたら買うと思う。

 こうした写真集の出版で利益の一部は義捐金として送るかどうか明記している出版社はないが、どういうことなのだろうか。


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