小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

悲しくても清々しく

2019年08月15日 | 日記

8月の6日、9日、そして15日。人それぞれに過し方はあるだろうが、なんとなく居住まいを正したくなる。日本人なら誰しもが、という時代ではないが、そういう気持ちをもつ方は、どんな行動をとるのだろうか、もちろん人それぞれだけど・・。

わたしはこれまで黙祷し祈るのみで、そのために何処かに出かけたり、特別なことはしてこなかった。ただ思うのは。70余年も戦争がなかったことは僥倖であること、それはあの鬼胎の時代に、不本意に死に至ったすべての人々の魂魄の力による、という思いをいだいている。

ただし、気がかりなことはある。現実の在りようと、憲法の条文に齟齬があることは気になっていて、整合性を期すべきだと考えていた。しかし、それに乗じて恣意的に改変する勢力(ほぼ既得権益層)が認められるし、憲法そのものは、真に「日本人の、日本人による、日本人のためのもの」なのか未既定である。まして、その根源を自ら問うたことも、第三者に問われたこともない。ちょっと恣意的に飛躍すれば、やる気と覚悟の問題だから、怖いといえばそうだ。

その他に今年はとくに書き記しておきたいことはない。例年この日は、晴れの日が多く、酷暑だという印象が強い。なんだかなぁ、今年は台風のせいか、蒸し暑くて、からだも怠くて「うざい」(この言葉の語源を知らないし、使い方も知らん、だから今日だけ)。

▲西日本での台風被害が思いやられる。こちらは午後になって、晴れ間も見えた。雲の流れが速く、下の雲が南から北へどんどん流れる。上空の雲は逆に、北から南へゆっくりだ。見飽きない。

最近、歌人の永井陽子の作品を集めている。歌集が手に入りにくく,かつ高価なのだ。で、ネットの記事やら図書館のアンソロジーなどを渉猟してたら、500首近くになった。私家版の歌集成でも作ろうと思っている。

永井のいずれの歌も秀逸で、現代的な言葉遣いでありながら、日本古来の韻律の調べ、文学の力を感じる。さらには、どの歌も哀切に満ち、胸が締めつけられる。不思議にも、悲しい歌なのに心が洗われ、清々しい心持ちになる。

彼女は同世代だが48歳で自死した。たぶん、永井陽子について、これからいろいろ書くことがあるだろう。

そして、同じ歌人だが、山中智恵子の歌も最近読むようになった。1925年生まれで、亡母と北条すず(旧姓・浦野)は、同年齢の女性であるから、過酷な時代を生きてきた女性たちだ。彼女たちから、小生は学ぶというより、共に生きたかったという時空を超えた望みがある。


ともあれ、永井陽子の歌三首を載せる。今日の日とは関係ないのだが・・、単に「悲歌」ともいえない。


もうすぐ青空があの青空が落ちてくるそんなまばゆき終焉よ来たれ

ふりかへりまたふりかへりひとすぢのかなしみのなかへおりてゆく夜

にんげんの血が流るると知りし日の耳には耳のかなしみがある




 
 
 
 
 
 

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