小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

根岸のころの九鬼周造

2016年06月29日 | まち歩き

 

 

 

『いきの構造』で知られる哲学者九鬼周造は、東京の芝あたりで生まれ育ったものと思い込んでいた。(松岡正剛の何かで読んだ)最近、未読であった九鬼の随筆集(岩波文庫)を読み、年少の頃根岸で暮らしていたとある。
最初に「根岸」、最後に「岡倉覚三氏の思い出」を配した随筆集。なんと、菅野昭正による編纂であったとは迂闊、もっと早く読むべきだった。

さて、この二つのエッセイは、両親が別居して根岸に移り住み、多感な少年時代の頃の話が中心である。文庫本ゆえに九鬼が執筆した時期が記載されていないが、後年になって京都から根岸を再訪し、当時を回想する、そんなニュアンスの文章である。したがって、帰国して10年後ぐらい、四十代前後に書かれたものと思われる。
かつてあった家の近くの「千手院」や「御行の松」などを懐かしみ、いろいろ述懐するのだが、当時の「根岸の里」の様子、雰囲気が匂いたつように実感できる。実に興味深い。

九鬼が根岸で暮らしていた頃、母親と天心は頻繁に会っていた。谷中で美術院を立ち上げた天心は、歩いても近い根岸の家にも遊びに来、一緒に夕飯を共にしていた。
両親はまだ離縁していないが、周造は岡倉天心を父親のように慕っていたとある。天心に連れられて外に行った際、ある店の女性から「坊ちゃんはお父様によく似ていらっしゃる」などと云われた。このことを満更でもないふうに書いている。母親は周造を身籠っていた頃、岡倉天心と恋に落ちていたことは有名だ。

 岡倉氏は筑波山へ狩猟に連れていってくれたこともある。氏の長男一雄氏とわたしの兄とわたしの四人であったと思う。(中略) 茶店で憩うと婆さんがわたしをつかまえて「まあ坊ちゃんはお父さまによく似ておいでですネ」と世辞をいった。岡倉氏は黙って笑っていた。  (「根岸」より)

 

 

▲根岸「千手院」の境内。この寺の向かいに「手児奈せんべい」の店があった。年季の入った店でそそられたが、最近は煎餅を殆んど食さない。九鬼が住んでいた頃からあるのか・・。この近くに九鬼の家があり、兄と一緒に人力車に乗って、神田一ツ橋の高等師範小学校まで通ったという。父親はいまの文部省の高級官僚で、美術学校との関係で岡倉天心と交流があり、周造の母となる妻(芸伎だった)と岡倉は恋仲になった。周知の不倫関係でありながら、男同士として公私共に深いつきあいがあったのだ。上層部の方、破天荒ともいうべき芸術家のなすことに、凡人の私には想像を超える。但し、周造の母は離縁された後、精神に失調をきたし長く患った。

 

 

▲初代の「御行の松」。江戸名所図会では「時雨が松」とも呼ばれ親しまれたとある。昭和3年に枯死。三代目の松は、同じ西蔵院不動堂で育っている。「御行の松」とは宮様がどこかの寺に御行するとき、この松の木で決まって休んだことに因む。

 

▲不動堂。三代目の「御行の松」は若々しい。

私の家の近くの天心公園は、かつて岡倉天心の住まい兼美術学校があったところ。九鬼は天心に会いたくて、よくここに遊びに来たという。

九鬼周造はドイツから帰国して京都帝大に勤めた。祇園の芸妓と二度目の結婚もし、没するまでの後半生を京都で過ごした。だから『いきの構造』などの著作は、関西の文化圏で構想されたものがベースになっていると思っていた。「野暮」、「いなせ」などの概念は、京都にもあるものだと思っていたが・・。彼の母親への思慕はつよく、その影響は多大であったわけだから、年少の頃の江戸の「粋(いき)」こそが原体験としてあり、その後「洛中」の「粋(すい)」も当然のごとく考察の対象となったのであろう。

日本を考えるとき『いきの構造』は基本テクストになろうが、日本の「情緒」や「心性」なるものを概念図を使って体系・構造的に分析するのは、現代にも通用する分析手法で分かりやすい。

でも、随筆集をちらちらと読むにつれ、九鬼が意外なほどに学者的というより、江戸っ子気質の感性あふれる情緒人、文化人であることがわかった。
文章もそんな味わいに満ちたもので、ベルグソンやハイデッガーに師事した学者とは思えぬ親しみをおぼえた。『いきの構造』については、また改めて触れる機会があるだろう。

 

 母は急にひとり京都へ行くことになった。ある夜、岡倉氏は母の膝にもたれている私を顧みながら、荘重な口調でこの児が可哀想ですといった。父は母を岡倉氏から離すために京都に住まわせたのらしかった。

  (「岡倉覚三氏の思出」より)

 

▲岡倉天心公園 北茨城市五浦の六角堂を模したもの。平櫛田中作の天心坐像があります。


追記:岡倉覚三つまり天心の住まいが、上記の公園つまり日本美術院であったと表記した。本日7月1日、野田宇太郎の『文学散歩』を読み、天心が東京美術学校(芸大)の校長となった明治23年[1890年)に、麹町から根岸に移り住んでいた事実が分かった。住所は分からない。そのとき周造は一、二歳だったが、母、兄と共に根岸にいたか未確認(九鬼一家はそれ以前、天心と同じく麹町にいた)。天心はその後、明治31年に周造の母とのスキャンダルが原因で東京美術院を追われ、谷中に自らが日本美術院を立ち上げた。周造は10歳であり、谷中にもたまに訪れ、美術学生たちの絵を描く姿に感心している。

最初、周造が芝で生まれ育ったという不確定の情報は、やはり松岡正剛の「千夜千冊」(689夜)であった。『いきの構造』について、若いときの誤読を悔い、九鬼の凄さを改めて論じている。

松岡正剛 689夜いきの構造   http://1000ya.isis.ne.jp/0689.html

さて、天心のスキャンダルは九鬼周造の父親が天心ではないかと勘ぐられるものだが、真相はわからない。ただし、天心その人がたいへんな情熱家であり、誤解を受けやすい人であった。晩年にはインド女性との熱烈な恋文を交わして評判になったこともある。やはりキリスト教信者として「愛」を語る情熱が、女性のハートを揺さぶったのであろう。

なお、誹謗・中傷により今の芸大を追われたとき、天心を信じて横山大観など優秀な教え子たちもついてきた。その事情を伝える記事を下記に載せます。

「一種の精神遺伝病を有し」「非常なる惨忍の性を顕し」等の天心を誹謗中傷する文章で埋まった怪文書や新聞記事により、大きく名誉を傷つけられた天心は美術学校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任するものが、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名の多きに及んだ。明治31年天心36歳の時である。

 以上 7月1日記す


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4 コメント

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はじめまして (さの)
2024-02-04 01:32:06
はじめましてそして恐れ入ります。
京都在住の30歳男です。

今月の6日に九鬼氏の縁の場として根岸を訪れるつもりでありまして、旧住居の面影や街の雰囲気を感じようと思っておりました。
下調べの段階でこちらのブログがヒットしまして読ませていただきました。
今回の探訪に際しまして情報を集めている段階です。こちらの記事以上に何かご存知なことはないだろうかと伺いたく存じます。お時間ございますときにまたご返信いただけたらと存じます。
失礼いたします。

ps.「実在するパノプティコンと監視社会」を大変興味深く読ませていただきました。他の記事も追々読ませていただきます。
返信する
さの様 (小寄道)
2024-02-04 19:00:36
古い記事をお読みいただき、かつご丁寧なるコメントもお寄せいただき誠にありがとうございます。
周造が幼少の頃、根岸にくらしていたことは間違いありません。但し、実際にどの地番に住んでいたかまで調査しませんでした。全集の年譜を見れば分かると思います。
当記事の該当場所は、山手線鶯谷駅から5分ぐらいの場所ですが、私どもが「根岸」というと谷中墓地の下あたりの連れ込みホテル街が有名です。
戦前は、いわゆる二号さんたちがひっそり集まって生活していたそうですが・・。
とはいえ、この一帯には俳人の正岡子規の旧居跡(現記念館)、その真ん前に中村不折の書道博物館、そして、ご存じかどうか分かりませんが、落語家林家三平の記念館(家族宅)が近くにあります。
京都ほどの由緒ある土地柄ではありませんが、東京の下町風情がどことなく残る場所です。
当方、病を患っており、コメントに気づくのにだいぶ遅れました。申し訳ありません。
どうか、こちらにお越しの際はぜひとも楽しまれるよう、こころからお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
返信する
ご返信ありがとうございます (さの)
2024-02-04 20:05:24
お返事ありがとうございます。

そしてまた追加情報忝いです。恐れ入ります。戦時の根岸の風土や地形の変化、岡倉氏についても考慮しなければならないのかなと改めて思いました。

5日と6日の関東の積雪予報の為、今回の旅行を取りやめました…。今月の13日・14日にまた挑戦しようと思っております。もう少し調べる期間に充てられそうです。勉強します。

今日は京都山科(四宮)へ九鬼氏の居住地跡の探訪致しました。京都の粟田辺りも探索してみましたが、まだ僕自身の勉強不足が否めません。精進します。

車椅子での生活をなさっていると読ませていただきました。ご無理をなさらずと不躾ながらお節介を焼かせていただきたいところですが、同時にブログの更新も楽しみにしております。
しかし呉々もお大事にされてください。失礼いたします。
返信する
Unknown (小寄道)
2024-02-05 01:05:08
早速のリコメ感謝です。
どうか焦らずに、東京訪問が楽しく、充実したものとなるよう願っております。
小生、案内を買ってでたいところですが、外出が難しく不如意に甘んじております。
どうかこれに懲りず、拙ブログのご愛顧をお願いいたします。
ありがとうございました。
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