小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

アンドリュー・ワイエス 生誕100年に

2017年10月01日 | 芸術(映画・写真等含)

 

 今年は、漱石の没後100年、生誕150年であり、早稲田に記念館もできるなど話題は多い 。それに乗じてとはなんだが、畏友正岡子規もほんの少し話題になり悦ばしい。

同じ慶応3年生まれ生誕150年でありながら、幸田露伴、宮武外骨、尾崎紅葉、南方熊楠、斉藤緑雨らの名前の沙汰は聞かれずに寂しいが、私が知らないだけかもしれない。(スピンオフ・ネタとして坂本龍馬没後150年)


ま、しかし、それほど漱石の偉大さは、世代を超えて読まれるべき普遍的なテーマを抱えていることに尽きる。「個」とはなにか、「個」がふるまうべき「生」とは、「個」は「世間」といかに関わるかなど、「個人」の在りかたを漱石は示唆している。「則天去私」をさらに自分に引きつけて一考したい、今日この頃である。

漱石の言葉の使い方、感性のはたらき、そのメカニズムみたいなもの、思考の粘着力、集中力に感服するしかない。時代に色褪せない、耐性のある言語感覚といっていい。文学に浸ることの愉しさが、かるく読むだけで甦ってくる。こんなふうに書いてみたいという、不謹慎な欲も出てきたりする。ただ、明治時代への憧憬をろ過しなければならず、その邪まな欲はたちまち萎んでしまうのであるが・・。

もとい。書きたいことから外れた。


アンドリュー・ワイエスの、生誕100年だという。1917年、ロシア革命の年。ジョン・F・ケネディもそうだが、なぜか話題なし。

アメリカ独立13州のひとつペンシルバニアで生涯を全うしたワイエスは、ニューイングランドに代表される厳しくも美しい、アメリカ合衆国北東部の原風景をこよなく愛し、その自然と人々を描いた。メイン州に別荘をもっていたことも納得できる。

バーモント州で人生の大半を過ごしたターシャ・チューダーもワイエスと同世代、彼以上にニューイングランドの自然を慈しみ、そこに生きる糧を見出した。雪に覆われる長い冬から、草花が萌え出ずる春の季節へ・・。花々の繊細かつ鮮やかな色彩はナチュラル・ガーデンに息吹をあたえ、周囲の森林に囲まれるなかで香わしい交響詩を奏でた。冬籠りでは、ターシャは絵本作家になり、ときに人形をこさえた。

 もっと古くは、自然環境保護の先駆者ヘンリー・ソローがニューイングランドを代表する。彼の代表作「森の生活」や「メインの森」では、ニューイングランドならではの豊かな自然の森を背景に、新大陸の野生と向き合い、いかに折合をめざすのか、人間の在りかた・叡智を教えてくれる。もっともソローは、ナチュラリストというよりモラリスト、思想家として近年注目されているが・・。

 ワイエスは上記の二人とはかなり違うセンスをもつ。彼の写実画は、朽ちかけた農家や牧草地だけの殺風景を、舞台装置のように描く。ニューイングランドの厳しい寒さの残像や、農民さえ逃げ去ってしまったような荒涼なるイメージ。それらがかもし出す独特の寂寥感をあえて描写している。

▲『カーナー農場の夕暮れ』1970

自然の情景・・。季節は春、夏よりも秋、冬。森より草原、立ち枯れた木々。草木の青々しさより、モノトーンやこげ茶、くすんだ深緑。人も、自然も沈潜し、静寂につつまれている。これがワイエスの美だ。 

人物の肖像にしても、地元の隣人をモデルにしているが、人づきあいが苦手そうな高齢者、ひ弱そうな女性が多い。しかし彼らはやがて、厳しい自然の中で静かに、強く生き抜く孤高の「個人」であることが分かってくる。

▲『ローデン・コート』1975 ワイエスにとってのベストモデル、ヘルガ。

▲『さらされた場所』1965 オルソン家の住まい 「家の肖像画」だとワイエスはいう。先日、NHKの新日曜美術館では、この家の実物映像がでてきて驚いた。記念館になったのだろう。

 

ワイエスはなぜか、森や木々に目を向けない。平原や牧草地の、草草の一本一本さえも丁寧に描き込み、人が手を入れたようなのっぺりした自然の陰翳を描写する。農民がいつのまにか逃げ去ってしまう、そんな荒涼とした雰囲気を漂わせるかのように丹念に描く。喪失感という内面に目をむける、そんなワイエスの感性は優れたモダニズムだ。

 「復活祭」というタイトルのもと、ワイエスはこんなことを書いていた。

なぜ、アメリカの風景を描くのか、と人は言う。そこには深さがない、深さを知るにはヨーロッパへ行かなければ、と。私にとってそれは意味のないことだ。深遠なものを得たいと思ったら、アメリカの田舎にこそ、それがあるのだ。


▲『カーナー夫妻』1971年 ドイツ語を話す夫婦。抽象的形式の肖像画であるという。 

▲『フィンランド人』 シリの父親、ジョージ・エリクソン

 これらの風景や人物は、普通なら近寄りがたさ、よそよそしさを感じさせる。だが、しだいに私たち現代人にも共感できる、ある種の洗練されたライフスタイルを喚起するのだ。エコで倫理的というか、余分なものをそぎ落とした清廉な雰囲気を匂わせて、アメリカの過剰なテクノロジー、奢侈、合理精神を拒絶する。そうとしか思えないほど、ワイエスが好んで描く対象は、ストイックさと静寂さに充たされている。

ポロック、フランシスらのアクション・ペインティング、へリングやバスキアらのポップアートなどアメリカ現代絵画には刺激をうけてきた。ワイエスを初めて見たときは近代ヨーロッパの写実絵画に思えたし、アメリカが独立した頃のオールドエイジのオマージュ絵画だと思った。

でも、ワイエスから感じられる寂寥と孤独感は本物だった。世の中が浮ついているバブル時代だったから、ことさらに過剰な現代社会に対する清冽なアンチテーゼにも思えた。(ワイエスの個々の作品は緻密で美しいが、社会的メッセージや暗喩が未熟だという評価。それは批判にさえ当たらない。理由はここに書かない。)


アメリカの原風景と人間たち、私たちはそれらが意外にも懐かしく、近しい感じを抱く。共感する何かがあると思えてくる、そんな印象をもつのは不思議なことだった。ニューイングランドといえばWPS、ピューリタン、アングロサクソンなどの白人種というイメージが強い。ワイエスの作品には黒人、先住民の子孫、アジアの血が混じった北欧移民など、多人種の人々が登場する。アメリカの北東部とは思えない人選が私には好ましく、絵画の魅力はさらに増幅した。


だいぶ前に、このブログで書いている詩のようなもの、ワイエスのヌード画をモチーフにした「試詩 リアル・ノワール」をここに貼る。読み返したら若書きの詩のようで恥ずかしい。90年代にメモのように書き残し、50の齢を過ぎてなんとか書きあげた。

この「奴隷収容所」という作品からは、今でも胸が圧迫される強さと、生命のもつぎりぎりの尊厳、その儚い美しさを感じることができる。確か文化村の展覧会で見たと記憶している。黒人女性はワイエスの想像上の人物で、後に連作の画集にもなった「ヘルガ」をモデルにしていたことが分かった。1976年頃、たゆまぬ習作を重ねてワイエスは完成させたらしい。

 

▲『奴隷収容所』 ワイエスは、最高の自作ヌードだといっている。「・・・私はトーマス・ジェファーソンの時代に奴隷を閉じ込めていた囲いのことも考えていた。この囲いは『バラクーン』と呼ばれていた。私にとって、この絵は純粋で、しかも単純なものだ。感情が高まりさえすれば、小道具などはまったく必要としないのである」

 

たとえばワイエスの黒人奴隷を薔薇の花に見立て / 彼女が眠りを貪り、体を癒していても

それはワイエスの欲望なのか、美への賞賛なのか、それとも怯えなのか / 臀部のなめらかな曲線がふくらはぎに達したとき

世の中の一切の企みは無に帰すべきだ / 生死の間のあきらめとして理解されてほしい

(拙詩「リアル・ノワール」より抜粋 手入れしたいところが、時が経ちすぎた。)


 

▲参考までに、「仮収容所」と題された水彩の習作。 画集「ヘルガ」では、「黒いベルベット」が傑作だ。

 

 

 

 ▲現存するオルソン家の住まい

 



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2 コメント

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Unknown (スナフキンÀ)
2022-06-17 19:36:09
オルソン家なのか……と感心しました。
ワイエスの絵のシリーズに、体の不自由な女性と風景を連作したものがありますね。あの女性はオルソン家ですか。
スペイン語版しか持ってないので、読めないです。まぁ英語でも大して変わりませんが(笑)
メイン州でしたか。そうそうケンタッキーに始まるアパラチア山脈の終点がメイン州ですね。そしてキューブリック映画になった「シャイニング」も
やはり名作「スタンド・バイ・ミー」もメイン州。どちらもスティーブン・キングの原作で、彼は少なくとも長編はメイン州しか舞台にしませんから。
クージョ、霧、キャリー、ロングウォーク、ことごとくメイン州。キング作品は幾つも読んでますから、冬が厳しい自然なの解ります。
そういえば若草物語のオルコットは、少女時代に家を訪ねてくる青年(オルコットの親父は割と有名な哲学者で神学者。アメリカ人の哲学者って何か……)が後に「森の生活」を書くソローだったそうですが。そう考えると映画の若草物語のいかにも北東部の自然の美しさは、ワイエスに通じる気がします。
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クリスティーナ (小寄道)
2022-06-18 09:59:04
コメントありがとうございます。
5年前の記事を読んでいただき、恐縮の至りです。さらにコメントまでもらい感激です。

ワイエスの女性モデルでいちばん有名なヘルガは纏まった画集もあり、我が家の宝ですね。その他のモデルでは、シリとクリスティーナが有名ですかな。

そうです、ご指摘のとおりクリスティーナは足が不自由らしかった。草原に坐って、遠くを見つめる絵がありましたが、ワイエスの傑作のひとつですね。
彼女の本名は、クリスティーナ・オルソンといって、ワイエス家とは家族ぐるみの付き合いだったそうです。彼女を紹介したのは、ワイエスの奥さん経由だそうです。
ちなみに、ヘルガの存在は20年ほども、奥さんには秘密にしていたんですよ、ワイエスは。コンチキショーな野郎ですな(笑)。

スナフキンÀさんも、スティーブン・キングの愛読者でしたか。本はほとんど読んでないのですが、映画はけっこう観てますね。
題名わすれましたが、作家が熱烈な愛読者に囚われ、殺される寸前までいく映画は、身の毛がよだちました。
他の件で、書くことがあったのですが、忘れてしまいました。次の機会にまた、では。
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