小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

一つの事実がある、だが真実は幾つもある

2021年01月07日 | エッセイ・コラム

60年ほど前、当時ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、人類で初めて宇宙空間に飛び出した。といっても、地球の成層圏をちょっと脱出する感じだったらしい。時間にしても2時間弱ほどの短い滞在だった。

そのとき小学校5年の小生は、異様に興奮したことを覚えている。ガガーリンが地球に無事に帰還してからの「地球は青かった」という言葉は、子ども心にも鮮烈なイメージをもって実感できたのだ。

暗黒の宇宙のなかで、丸くて大きいしかも美しく青い球体が浮かんでいる。不思議なことに、あたかも自分が神のように、俯瞰して見下ろしている己の存在を意識したのである。

ガガーリンの見識にすんなりと感情移入ができたのは、子どもならではの想像力のたまもの、としてしか今となれば考えられない。それほどに忘れられない、個人的かつ超感覚的な一瞬だったのだ。

いやいや、それもあるのだが、当時、とつぜんとして父親がこの世からいなくなり、家族がばらばらになって、自分は伯父の家庭に預けられた。

だが、そうしたことは、地球を外から眺めるという視点からは、ちまちました人間の動きなど一切は見えなくなる。地球という一つ青い天体のなかに含まれ、極小の世界にしか過ぎない。ある意味で都合のいい考え方、ものの見方を子供ながらにも認識し、そのときは自分なりに気に入った。

不幸なことはどうしようもなく、一つの事実として受け入れなければならない。青い地球のなかでは取るに足らない微小な事実にしか過ぎないのだ。

つまりは、世界にあるたくさんの外国、そこに暮らす人間たち、日々繰り広げる喧嘩や争いも、世界にたくさんいる動物も、宇宙から眺めれば、一つの丸く青い球体にしか見えないという事実が、当時の自分からすれば凄い気づきを得られたように感じた。

さて、子供時代をただ徒に回顧したいのではなく、事実というのは人それぞれに存在し、目の前に現前するものはすべて受容できる。

独り善がりの拙い哲学を語ってもしょうがない。なぜ、こんなことを書いているかというと、世界はいま求心力を急激に失いつつあり、その不安をどう解消しようか、誰もが疑心暗鬼になっているように思える。コロナ禍が全世界に及んでいることも影響していると思う。

小生からすれば、少年の頃に思い描き、確信に満ち溢れた「一つ青い地球」が、いまなぜか朧げに見えてくるようになった。そのことが何よりも起因している。

また、最近になって、アメリカの歴史を自分なりに学習しはじめ、この国をつくってきた人々特に白人たちの心性や宗教観、価値観をあらためて自分なりに考えはじめた。この稿では、それらの詳細を書く準備はできていない。

とりあえず衝動的に、すこしばかりロゴス的に、自己体験を織り込みながら書きはじめた。子ども時代に何をかんがえ、何を判断基準にしていたのか・・。そんなしがない思考を忠実に呼び覚まし、敷衍させたゆえの結果でもある。

「一つの事実がある、だが真実は幾つもある」ことを思弁的に書き続ける、その橋頭堡としての第一歩が、今日のブログであることを願い、とりあえず筆をおく。(このもって回った文体を、いましばらく見逃していただきたい)


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