小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

泥沼のいま、原発はいらない

2018年11月18日 | 社会・経済

 

11月15日 高松高裁は、松山地裁決定を支持し、愛媛県住民の申し立てをしりぞけた。ご存じの方も多いだろう。稼働した伊方原発3号機の運転、その差し止めを住民側は訴えた。その理由のひとつは、立地環境がたいへん懸念されていること。阿蘇カルデラの「破局的噴火」が起きる可能性が指摘されている。少なくとも絶対に起こらないという保証はない。

しかし、高裁はその根拠不十分で「立地が不適とは考えられない」と原子力規制委員会の判断を追認した。また、原発が耐用年数に達しても、耐震設計・設計などに関して合理性があり、「最新の科学性、専門的技術的知見に照らして相当」とした。(高裁側は、自らの判断基準と根拠を示すことはなく、政府系機関が下した判断を追認をしただけだ。)

さかのぼる10月27日、茨城県の東海第二原発(東京電力福島第一原発と同じ沸騰水型炉)では、周辺30キロ圏内には、全国の原発で最も多い約96万人が生活し、なおかつ今年11月に40年経過したにもかかわらず、再稼働に向けて原電は着々と準備をすすめている。

さらにさかのぼれば、二か月ほども経ったが北海道の大地震で、苫東厚真火力発電所(厚真町)が停止した。その結果、全国初の全域停電(ブラックアウト)が発生した。その反動であろうか、平成25年以来長期停止している泊原発(断層の審査中)を再稼働させようと、その待望論が御用エコノミストや識者(ネトウヨ系支持)らの間で喧しかった。

これら一連のうごきはどう捉えたらいいのだろうか。あのフクシマを忘れてしまったのだろうか。

世界各国はあれから「反原発」に向けて、オルタナティブな施策を次々と打ち出している。基本となるものは、再生エネルギーへとシフトするために、未来志向テクノロジーの開発だ。と同時に、パリ協定に基づく温室効果ガス削減への推進だ。アメリカは脱退したが、日本はというと実質的に未知数だが、今後アメリカに同調していくだろう。

一方、原発エネルギー依存をはかる後進国も、方針転換を志向し始めた。日本政府が後押ししている「原発輸出」の相手国、トルコやベトナム、インドネシア、マレーシア、台湾などは今や政策を改めて、原発建設からは事実上遠のいたのが現況。トップセールス外交を担った安倍首相の心境はいかに?

そんな国際情勢なのに、である、日本政府、識者の一部、そして司法までもが原発再稼働を死守する構えを隠さなくなった。

何故なんだろう。これを一人の人間としての行為とみれば、「認知の歪み」があると見なされてもおかしくない。

目の前の状況をただしく把握できないのは、自らつくりあげた幻想に囚われているか、何モノかに依存している「病い」なのだと考えられる。そのものずばり「依存症」とか「不安症」などの症状を呈している。

筆者はさらに別の味方を指摘したい。この国のエリート乃至エスタブリッシュメントは、これまでというか伝統的に人民を軽く見る傾向が如実である。

「由らしむべし知らしむべからず」という論語のことばを為政者、官僚がよく使うとの風聞がある。そこには自分たちの卓越性・優位性を信じて疑わないという、怖ろしいまでの驕り、勘違いがあるからだとしか思えない。(注1)

現代にあっては、主従関係などない。あくまで法律の基での雇用関係だ。主人と奴隷のようなニュアンスの暴言を吐けば、各方面から非難される。だから、そんな発言は控えるはずなのだが、ごく一部のものは脇が甘く、失言して更迭されるのがよく見受けられる。

とはいうものの、この国のトップやナンバー2は、この種のことを公言して憚らない。記者に真意を尋ねられても、堂々として切り抜けている。それがあたりまえになってしまった。

メディアの指摘、追及も甘く、政治家の深謀遠慮のない発言に対して、その場で鋭いツッコミを入れられない。発言内容が、常識を逸脱したような「現実認識のずれ」、「認知の歪み」があることを指摘できない。昔はといえば、そんな常識を弁えない者はすぐさま外野に下るしかなかった。

いまは原発だけではない。外国人労働者の受け入れ及び移民政策、身障者雇用水増し問題など、「現実認識のずれ」と「認知の歪み」の問題がいたるところで目立つようになった。

筆者はかつて「人的厄災」という記事を13年前に書き、フクシマのことを予感したようなアフォリズムを書いたことがある。

実際にフクシマが現実のものになったのに、そのことの恐るべき事実を認め、正しい判断がいまだにできない。日本でもっとも優秀な人たちが集まっていて、その当事者としての責任感はおろか、その自覚がないのは何故なんだ。

人的厄災は、ふたたび繰り返される、というしかない。

泥沼の未来へ ② (参照されたし)


(注1):封建制の色濃い江戸時代から為政者たちの間で言われていた慣用句。
「人民たちは、われわれが作った施政方針の道理など理解できるはずがない。彼らの性向は、寄らば大樹。だから、われわれに任せるように仕向け、何事も知らせたり、教える必要もない」として牽強付会ともいうべき解釈がなされている。
出典は『論語』泰伯編。「人民を従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という、ただそれだけの意味。
「難しい法律の中味、それを作った理由を納得させることは非常に難しい」、たんなる事実認識を述べているに過ぎないのだが、江戸時代の識者・為政者が拡大解釈した。
その認識は、明治の時代になっても官僚たちのあいだで囁かれ、今日までその歪んだメンタリティは上級官僚に残存しているという。あくまで風聞であるのだが・・。

 

イノチの囁き、美しいもの、何もないのはあまりにも寂しいから。最近の写真から。

▲こうやって松の害虫を駆除する知恵と工夫。人間界でできないものかなあ。

 

 ▲上の写真と同じ場所。こんな時期にも咲くなんて・・。「皇帝ダリア」という名の花。ほぼ野生。

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