小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

宗介と悠介

2015年12月22日 | 本と雑誌

 

雑誌「現代思想」の2016年1月臨時増刊号は「見田宗介=真木悠介」である。

彼が拓いてきた社会学は、世代を超えて注目されているだろうし、現実社会を深く照射している学知として、門外漢の私にとっても刺激的である。
さて、この雑誌の巻頭に加藤典洋との対談が載っている。最近、「戦後入門」という加藤の分厚い新書を読んだこともあり、いつもは立ち読み程度で済ませていたのだが、「現代思想」を買って読むことにした。

加藤は錯綜とした問題群を読み解き、手際よく整理し何らかの解決の道筋をつけるタイプ。「戦後入門」では、彼の「敗戦後論」が巻き起こした「戦争責任」問題を含めて、日本の安全保障を中心に「対米従属」とその「ねじれ」の諸問題をいちおうすべてリセットし、そこから丁寧に、問題とねじれをひも解くという作業を積み重ねた労作といえる。
最終的には、矢部宏治の「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」と、ロナルド・ドーアの「日本の転機」で提起されている二つの道筋をつけてソリューションを示唆しているのだが、何かもったいない気がした。詳しくはここではふれない。

一方、見田は学者だ。一次資料を調査・分析し、膨大な学知を踏まえ、世界的視野といっていい見識で、未来の社会を追究する。その過程で本質とそうでないものを取捨選択するが、研ぎ澄まされた感覚のようなものまで総動員された極めて学芸的な社会学だと、私はおもう。その意味では、データを偏重する凡庸な社会学者とは一線を画する。いやここで見田宗介について言及するのは、私の能力をはるかに超えるので止めよう。

この対談で分かったことがある。(知っていた人は、何をいまさらと笑うだろうが・・)見田宗介と真木悠介の使い分けのことだ。
「締め切りがない仕事を真木で書こうと思ったからです。締め切りがある仕事は見田で書く」ことだったのである。実に単純明快だった。
真木悠介の筆名は、なんら制約がなく自由に書くこと、抽象的で難解であっても書きたい主題があるときに使ったというわけだ。「現代社会の存立構造」はまさしくそうだ。ではなぜ「気流の鳴る音」は真木名義なのか、私には分からない。まあ、彼の中では然るべき理由があるのだろう。
私がしっかり読めてないのかもしれない。ということで、また「気流の鳴る音 交響するコミューン」を再読し始めた。

この雑誌で見田は「現代社会はどこに向かうのか(2015版)」を掲載してる。
 その最後の部分を引用する。

 幾千年の民衆が希求してきた幸福の究極の像としての「天国」や「極楽」は、未来のためでなく永続する現在の享受であった。
 天国に経済成長はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現することはない。略

 そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服を我々に要求している。
 この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に満ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。

このブログで、私は二度までも見田宗介のことを書いている。今回またしても、彼のまなざしが「若さ」の方に向いていると思った。
もう少し「老い」をテーマにした「交響するコミューン」論を書いていただけたらと、切に願うのであるが・・。
どこぞの出版社が飛び切りの編集者をつけて、締め切りを設定した仕事を依頼したら、見田宗介の名で「気流のない、老いの世界」を書いてほしい。
これが私の夢とし、自分のテーマともしよう。

 

 

 


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