小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

結果オーライは、大人の選択か

2018年07月01日 | エッセイ・コラム

 

 

対ポーランド戦でとった日本サッカーの戦術の是非が問われている。そのことについて門外漢なれど、書き残したいことがある。

後半戦に入って10分ほどして日本は失点した。この時点で1点を取らなければ後はない。

メンバーを大幅に変えたせいなのか、攻撃パターンがこれまでと違う。3戦連続出場の柴崎は明らかに疲労が蓄積し、ロングパスの精度が落ちていた。攻撃の起点は、半分ぐらい柴崎からだった。

一方、後半30分ほどでセネガルが失点し、情勢は大きく変わった。

日本ベンチが慌ただしくなった。勝ち点ではセネガルと同じだが、ファウルの警告数では日本優位。つまり、試合に負けても、決勝リーグに進出できる。
そのことを踏まえて、監督は長谷部を投入。全選手にセネガル戦の状況と、戦術変更の指令を伝えるためだ。

以上の経過はご承知のことであろう。

様々な他国の勝敗シチュエーションを考えて、事前に西野監督はコーチ・スタッフとともに対応策を練り、何通りかの戦術パターンを想定していたはずだ。あのときのすべてが、西野監督の独断によるものだったら、それはそれで凄いことだ。(どうやら、彼自身のとっさの判断だったらしいのだが・・)

セネガルはたぶん得点できない。願望込みの判断である。根拠のない決定である。ほとんど「賭け」という行為に近い。

「究極の選択」の意味をもうすこし、監督に直截に問い質したいくらいである。

ここにおいて、日本サイドのファンは失望するか、西野監督を信頼するかに大きく分かれた。純粋にサッカーを楽しみたい第三者のファン、外国のメディアの多くは日本の戦術変更を非難した

サッカーのフェアプレイ精神を冒涜するものだという批判もあった。

スポーツマンシップにも悖る行為で、自力で勝利をつかむチャンスを自らつぶした。他力本願なんかサッカーでは許されない。10秒ほどの時間があれば得点が可能なスポーツ、それがサッカーの醍醐味だ。サッカーへの本質的な敬意がない。

などなど。そういった批判、侮蔑は全世界にあったろうし、日本のサッカーファンも同意せざるを得ない。

このすべてを含めて、西野監督は「不本意だが、究極の選択」をした。

もし、監督自らの咄嗟の判断であり、最終的にセネガルが得点を入れたとしたら、監督の選択は最悪のものとなり、悔やんでも悔やみきれない禍根を残したはずだ。日本の多くのファンが西野監督を責め、失格の烙印をおしただろう。

彼の人生は最期まで、このことで他人から非難され、低能・阿呆などの罵声を浴びせられるかもしれなかった。


しかし、試合そのものはご承知のごとく結果オーライであった。巷では「大人の選択」をしたのだという評価が増えた。

大試合において、大きな賭けをする度胸がありそうには見えない西野監督。セネガルが逆転するポテンシャルよりも、それ以上にコロンビアは優っていると判断したのか。

いずれにしても、彼には確かな「勘」があった。無知で臆病者にはできない判断だ。それは、彼なりの体験的な裏付けがあったからだ、と私には思えるのだが・・。


未来に不安をもつものは、やみくもに動き、責任を回避するために、他者に判断をもとめ、その決定を委ねる。

大人の選択だった。そのことよりも独特の勘の正体を知りたい。帰国してからの落ち着いた雰囲気のなかでインタビューしてほしい。

彼はたしかに饒舌ではない。言葉を選んでるというよりも、豊富な経験からの想念のスピードが速すぎて、言葉が追いついてこないのではないか。そういう西野監督に、最初は鈍感さや不甲斐なさを感じたけれど・・。彼のそれは、実行への熟慮であり、信頼への熟成であった。いまは静かに彼を見守っていこうと思っている。

長い人生のなかで、人は愚かな判断、選択をする。それは一度や二度ではすまない。でも、彼(彼女)がひとりで考え、決めたのであるなら、それは尊重すべきだと私なら思う。間違った選択に基づき、その結果が最悪だったら当人は責任をとり、自分なりに何とかしていくしかない。

結果がたまたま素晴らしいものであったら、素直に悦べばいいではないか。それが人生であろう。

非難や批判を甘んじて受け入れ、そのことを瞬時に決定し、結果がどっちに転んでも、選手たちへの謝罪を忘れない。そんな指導者は、日本で久しく見なかった。西野監督は大したものだと、つくづく思う今日この頃である。

ベルギーとの試合は苛酷なものになるだろうが、監督はじめ選手たちの善戦をお祈りしたい。

 

 


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