小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ブログのメタなネタ。或いはブロガー殺人事件について

2018年06月28日 | エッセイ・コラム

 

人間に関することで、自分に無関係なものが一つでもあると思ってはならない。     テレンティウス『自分で自分を苦しめる男』

書いてもいいものか、書ききることができるだろうか。そのように逡巡するネタがある。
それは、ブログを書くことに意味はあるのか、あるいはブログについてブログで書くことの、メタなネタは成立するかの問題である。

書こうとおもうと、たぶん自家撞着をおこして破綻をきたすことが目に見える。だから、逡巡するのであり、天に唾することになりかねない。

ブログは日記という体裁をもちながら、不特定多数のひとに公開し、書いた記事について読者がレスポンスできる機能をもつ。そのことで「共感」「共有」という副産物、コミュニケーションによる成果というか、達成感が得られる。(当ブログはそれをめざしてはいないが、そう書くと嘘だとの反撥があるだろう。でもホントなのだ。)

実名で書く人のブログは、書く人の顔が見えるかというか、ある分野における著名人であり専門家であろう。あるいは、ブログを通じて自分を紹介・主張することで、なんらかのメリットがある。それを期待する人かもしれない。

マスコミではほとんど目立たないが、本質的で真摯な作家がブログを書いている。市井にいる素人研究者、地方に住む名もなき優れた書き手のブログを偶然に、好奇心のままに発見することがある。それはもう無上の歓びだ。その経験があるのは私だけではないはずだ。

たぶん自分が生涯知ることのない、その道のプロのモノの見方・考え方にふれたり、参考にすべきブログに遭遇したときの歓びは大きい。時に、その方のコメント欄も読んで、共感をさらに深めるという愉しみもあった。そういう無名のコメントはまた、慎み深く品のある文章を綴っていて、歓びは倍増する(すごく少ないけれど)。

(沖縄の作家、目取真俊(めどるましゅん)のブログを発見したのは驚きだった。加藤典洋の『敗者の想像力』を読んで、この人の存在を知った。作品をまだ読んではいないのだが、その存在と日常の一端を知ることができた。目取真はいま、辺野古の実情をほぼ毎日、目の前で起きていること、その経験を写真で知らせてくれる。(『海鳴りの島から⇒https://blog.goo.ne.jp/awamori777

 

ブログは誰かに求められているのか・・。

読者が待ち望む面白さがある、為になる内容に富む、あるいは習慣となるべく毎日更新されて読むことがクセになる。そしてまた、簡明さと明晰さ、想像力を喚起する力のあるブログは数少ない。

そのようなブログを夜空の星に譬えれば、肉眼でみえる一等星、二等星である。キーワードを打ち込んでヒットすれば、そのブログは市販の望遠鏡で見える星。三、四等星として認められるかもしれない。

しかし、数多のブログは月のない夜でも、目には見えない星々のひとつだ。(当ブログもそうである。としたらこれを読むあなたは、幸運の星の持ち主だ。なんちゃって)

たまにパっと光る「きら星」は、寿命が尽きて爆発する超新星、どんなブログだ?


ブログを書くようになって13年と半年ほどたった。暗黒の宇宙のなかで、微かな光さえも発しない。でも、自分のなかでは、ひとりふたりと読者はすこしずつ増えている。年賀状をだす数よりもやや多い。

ブログの内容は御覧の通りである。特定の読者といえば、家人とごく親しい方だけで、不特定の人を想定して書けるわけではない。

筆者の個人的な考え・心情や、世の中の移りゆくことがらの印象を書いているにすぎない。だからと言って闇雲に向かって書いているわけではない。前述した顔を思い浮かべることのできるごく少数の人に、魂を込めるべき必然性があるものを書きたいと願っている。

 

話はまったく変わる。あるブロガーの理由なき殺人事件があった。犯人は誹謗・中傷中傷を繰り返し、たびたび炎上をおこしていたブロガーで、しばらくして自首したという。その男は容疑者として逮捕されたが、ネット上のイザコザが元で逆上したらしいが詳しいことは分らない。

犠牲者は容疑者とは面識はなかった。ただし、容疑者のことを「低能者先生」と呼んでいたらしいが、他にもそのように読んでいた人もいた。要するに、容疑者は確たる人間を特定しないまま犯行に及んだ。

常軌を逸した行動、あるいは、最近よくある「誰でもいいから殺したい」症候群なのであろうか。物騒な世の中というか、何かが狂っている。

ブログを書くことに、書いたことに自らの存在をかける意味はあるのか。

ネットではたくさんの人が様々なツールを使って、自分の言いたいことを勝手に主張している。それを読んだ不特定読者の共感、同調、嫉妬、否定、支援などさまざまな反応があるだろう。そしてコメントやらツイートなど、実際に書き手とその記事に反応する第三者とのやり取りがある。

すべてのネガティブな要素が重なり、それが最悪のパターンに帰結すると、今回のブロガー殺人事件のように発展するのだろうか。

30年ぐらい前、パソコン通信が誕生した。インターネットに新たなコミュニケーション・ツールが生まれた、情報革命だと言われた時代があった。そのときインターネットを知らない識者から、これはコミュニケーションとしては不完全なものだ、という批判があったことを覚えている。その主旨は、コンピューターを介したものは身体的でない、という根拠のない理由だった。

しかし、度重なる災厄、突発的な事故、事件のときには、ネット上のコミュニケーションはともかく素早くて的確。緊急事態のときには、とりわけ有効だとされた。貧しいものがフェイスブックで集まって、独裁国家を変革するほどのパワーをもたらした。

世界の誰もが支持し、今日の隆盛をみるに至っているSNS。

だが、考えてみれば、ブログを書いていて、これは確かに身体的コミュニケーションではない、と感じるときがある。誰かと直接会って、身ぶり手ぶりを使ってのコミュニケーションではない。無口な相手の、微妙な顔の表情を読み取るような、繊細でぬくもりのある対話は、ネットではやはり生まれにくい。

私たちは利便性を獲得したが、大切な何かを失ったのかもしれない。そんなことを考える、老いたブロガーは途方にくれるのである。

▲久しぶりに不忍の池に行った。たった一つだけの花が待っていてくれた。


 ▲6月27日、梅雨はまだ明けていないのだが、風がやけに強い。



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