小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『キリスト教は「宗教」ではない』を読む

2017年10月14日 | 本と雑誌

 

このほど出版された中公新書ラクレ、『キリスト教は「宗教」ではない』(竹下節子著)を読んだ。この反語的でキャッチーなタイトルは、販売促進のために編集者目線の奇を衒った目的でつけられたのではさらさらない。著者がたぶん万感の思いを込め考えた末の、端的で直截なタイトルだ、と読み終わってみて納得できた。

一神教・ユダヤ教の改革者、いや単に形骸化した律法の糾弾者としてのイエス・キリストがなぜ受難し、神の子となり得たのか。その弟子たちは新たな宗教としての「制度」を、どうやって整えることができたのであろうか。本書の力点はそこに置かれていない。もちろん、それらは踏まえられているが、副題に「自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜」とあるように、キリスト教のもつイデオロギーがいかに「西欧」を作りあげたか、近代の人間主体性つまり民主主義がキリスト教といかにリンクしているかが論理的にわかる。

その大きな流れの意味において、竹下氏の叙述は、平易な言葉づかいにもかかわらず、凝縮度、抽象度が高いと言わざるをえない。

著者いわく精霊が降りたかのように書きすすめたとあるように、論考は滑らかだがエッジが効いている。また、キリスト教の本質、初源を「生き方マニュアルとして誕生した」と読みかえる着眼など、素人にも理解できるような概念を提示されている。世界史、宗教史に興味ある方なら必読書だとおもう。

この本はキリスト教の起源とその変遷を時空をこえて捉え、世界史的な経緯及び地政学をふくむ存在論的な意義までも検証している。懐疑的でも、護教的でもない。佐藤優ふうの切り口鮮やか、だがアイデア尽きての中途脱線もない。新書ながらブレのない骨太の評論であり、しかも、世界宗教としてのキリスト教を、いわば脱構築的に読み直した刺激的な著作でもある。

「脱構築的」なぞという哲学用語は妥当でないと著者はいうだろうが、キリスト教を私のように生半可な知識で理解している読者にとって、キリスト教の本質がいかに「普遍的なイズム」を備えているかが腑に落ちるはずだ。だから、唯々祈り、信仰に帰依することが、宗教の持てる本質だと認める方には本書は向かない。いやいや、キリスト教の何派かはしらんが、組織と人がもたらす硬直化、制度疲労および原理主義的ドグマに翻弄されるキリスト者の方々にとって、門外の私が言うのはたいへん不遜であるが、目から鱗となる本になるに違いない。(英仏訳が望まれる)

なぜ宗教ではなく、イズムなのか・・。

そう、その前に、確かにイエスは処刑されたのだ。そして、復活し昇天したという言説がリアル化したことによって、見向きもしなかった人々(弟子たちを含めて)は信仰に覚醒した。その時代は、既に理性と論理の人、アリストテレスが亡くなって一世紀ほど経過している。死んだ者は生き返らないという常識の、一般的な科学認知性は紀元前にあまねく浸透していた。

であるのに、奇跡的事象が多くの人々に受け入れられたことは、その事実を補完するような様々な偶然が重なったと理解するしかない。つまり、単なる物語性だけで「イズム」・「思想」は、普遍化も宗教化もはかることは不可能なのだ。「信じるものが救われる」以上のインパクト、何かがあったに違いない。

また、キリスト教が世界史のなかで新大陸、東洋、そして極東の日本まで「布教」は及んだが、それは結果的に多くの殺戮、闘争、過誤、挫折を経て、その経験の痛みが還元され、血肉化してヨーロッパ社会における普遍的な価値観、文化的な装置さえもが構築された(そう、思いたい)。

現在に至っては、フランスのライシテ(政教分離政策)をはじめ、EU諸国においてキリスト教の宗教性は希薄化されつつある。しかし、多くの人々の精神的な支柱となり、重厚な文化的リソースを厳然として生みだし続けていることは、決定的な事実であるに違いない。

もうこれ以上、読解力の乏しい私のような者が、入門・概括的な新書とはいえ、差し出がましい拙劣な論評を書くことは許されない。この書のクライマックスともいうべき、第5章『「文明」としてのキリスト教』の初め、「科学的真実とキリスト教」に以下の記述がある。少々長くなるが、私がこれまで縷々書いてきたことの典型のような、エッセンスを凝縮した文章なので紹介したい。

ヨーロッパでは、啓蒙の世紀以来、「宗教」に非合理、蒙昧、のレッテルを表立って貼る人々が出てきた。宗教改革の後でプロテスタント宗派を国教として採用した国々では、それまでカトリック教会によって人生のあらゆる局面に張り巡らされていた「宗教」の規範と伝統から解放されたので、個人の内なる「信仰」と自由な社会的活動を分けることができる知識人が増えた。一方で、支配者の権威をカトリックの教会の権威と連動させていた地域では、「建前の宗教」と「本音の自由思想」との間で欺瞞的な使い分けがされるようになっていた。「教会」は、社会秩序の安定とそれを支えるための「女子供」の教育の場として温存されていたのだ。知的シーンにおける主流となり始めていた合理主義や科学主義においての本音と建前の使い分けが至る所に広がっていたと言っていい。

なお参考までに、各章の目次は以下の通り。

序章

第1章 「イズム」としてのキリスト教

第2章 信仰が宗教となる時

第3章「宗教」となっていくキリスト教

第4章 宣教師たちのキリスト教

第5章「文明」としてのキリスト教

終章 キリスト教と日本



追記:第4章の「宣教師たちのキリスト教」において、ロレンソ了斎という人物についてなぜ破格のページを割いたのだろう? 全体を考えると、その扱いは不思議に思えた。無知な私が読みこなせなかっただけかもしれない。また、読了後、以下のことを考えてしまったことを記述しておく。本書とは全く関係ないことであるが・・。

日本では、個人や地域の「喪」をオーガナイズするシステムとして、仏教という宗教がそれを担ってきたのだが、いまそれが崩壊しつつある。現代において充分に予測されてきたことだが、ライフスタイルの核家族化、都市化が進むなか、「埋葬」とか「墓」の問題の行末が思いやられる。宗教に携わる者が、それを需要と供給といったような金銭的なトレードで解決しようとしている。それはしょうがないのか・・。フランス、スペイン、イタリアなどカトリック国は、まだ地域の人々の紐帯が残っている。それはやはり「教会」という機能が、その役割があるのだろうか。であるなら、USAのステート群は強固だ。

 


 


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2 コメント

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ありがとうございます。 (sekko)
2017-10-14 07:10:50
さっそく読んでいただいてありがとうございます。「脱構築」という意識はなかったですが、言いえて妙かもしれません。

追記の疑問のお答えを私のブログに載せました。
(今書いているのは単行本なので書きたいことをたっぷり載せられる予定です。)
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Sekkoさま (小寄道)
2017-10-14 17:36:20
当ブログにコメントをいただき恐縮です。また、貴ブログに「小寄道」を紹介くださり誠に有難うございました。
カットされたイルマン・ロレンソ(了斎)のエピソードを拝読しました。たいへん魅力的というか、当時の知識人の3名それもキーパーソンを回心させたくだりは、ロレンソの凄さもありますが、琵琶法師がもつ知のスケールに驚きます。
その他、細かいことはForum3の方にコメントいたします。
ありがとうございました。
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