小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

地声がしゃがれて、困っている

2017年10月12日 | 日記

 

 

あちこちで、政治的な事柄を主張されている方々が目立っている。中味は至極まっとうだが、胸に響く言葉は少ない。ただ、皆さんは元気よく、はきはきした口調で淀みなく語りかける。序盤戦だからか、これが終盤にもなれば、声も出ないほどに自分の名前をはり叫ぶはず。政治家たらんとする人は、話し方は勿論、聞いている人々にその主張と声が透徹していくのが理想。名前は忘れたが、昔はそんな声の持ち主が結構いた。

最近、自分の話す声がしゃがれてきている。しかも、か細く張りのない弱い感じがして困っている。聞く人にしっかり届く声なのか、確かに伝わっているのか心許ない。人前で話すことが少なくなったせいかもしれない。昔はそれでも、透ってゆく声が出ていたし、プレゼンテーションする時なぞ、場所に応じて声を張ったり、低い声でそれなりの音量の声が出ていたと思う。

もう、元気で溌溂とした声は、よほどのシチュエーション(災害時)に遭遇しないと出せないのかもしれない。私の声をなかなかいい声だと誉めてくれた方もいたのだが・・。

声は自分だけのものでなく、聞く人のためでもある、とモンテーニュが書いていたことを思いだした。

モンテーニュの声は、意外にもだいぶ高かったらしい。それを自分でも承知し、偉い人に重大なことを伝えるときに、意識的に声を低くして話したそうである。そのときのエピソードだったか忘れたが、テニスを例にして発話の極意を書いていた。相手の動きに応じてボールを返すとか、相手の打ち方によって走ったり、止まったりすること。つまりそれは、丁々発止のコミュニケーションのことだ、と私は思い込んでいた。ボルドーの市長になった人だからとはいえ、16世紀の人間がテニスを例にコミュニケーションにおける声の出し方を論じるなんて、やはりモンテーニュは凄い人であると感慨を新たにしたくらいだ。

アントワーヌ・コンパニョンの『寝るまえの5分のモンテーニュ』は枕頭の書の一つで、眠れぬ夜に拾い読みをする。昨夜、竹下節子氏の『キリスト教は「宗教」ではない』を読了し、しばし昂奮。寝付かれないので、前述の本を読んだ。第19の「他者」のところで「ことばとは、半分は話し手のもの、半分は聞き手のもの」を題材にして、上記のテニスの箇所が引用されていた。

聞き手は、相手の話し方の調子に応じて、受け取る心構えができていないといけない・・テニスをする人のあいだで、レシーブする側が、サーブの動きとか、姿勢に応じて、うしろにさがったり、構えたりするのと同じ理屈である   第3巻13章「経験について」


自己と他者は互いに対話を補完し合う関係にある。であるなら、どちらが発した言葉でも対話する両者で共有されるが、そのことのみを重要視してはならないと注意を喚起する。つまり話し手或いは聞き手は、必ずしも友好的、協力的とは限らない。モンテーニュはむしろ、対話がゲームであり、「攻撃的で、競い合う」関係でもあることを強調したいようである。

そこでテニスの話がでてくるのだが、コンパニョンはさらに敷衍して、その会話することを攻撃する側と防御する側の立ち位置を愉しみ、「話し合う方法」のルールに則って勝負を実りあるものとしてふるまうべきだと解釈している。また、会話そのものが、友好と決闘のいずれかと見做すかで、当のモンテーニュも迷っているとコンパニョンは解釈。友好ならまだしも、決闘?


となると、相手に伝わるかどうか分からない、私のようなか細い声では、最初から負けも同然、降伏のサインをおくることになるではないか・・。

ま、しかし、寝るまえの5分でモンテーニュのエッセンスを語る本ゆえに、読者がほっとして眠りに落ちる程度の言葉を拾って、安心させてくれる。

「もっとも、たとえば『役立つことと正しいこと』の章にある次の寛容な一説では、会話においては信頼関係がまさると見ているようだ。」と、コンパニョンはこう結び、引用した。

こちらが心を開いて話せば、あちらも心を開いて、心中を打ち明けてくれる。お酒や恋愛と同じなのである。(第3巻1章「役立つことと正しいことについて」)


私が所蔵するエセーは松浪信三郎訳で、旧世代の翻訳だからすこし堅苦しい。その第3巻の1章も「役立つことと正しいことについて」ではなく「実利と誠実について」という訳し方。コンパニョンも宮下史朗訳だから、白水社版を読むべきか、ちと迷う。

しかし、「実利と誠実について」の最後は、モンテーニュをこのように訳していて、賞味期限はまだあると思うのだが。

人間的結合のうちで最も必要なもの、最も実利的なものは何かというならば、それは結婚であろう。それにしても、聖者たちの勧告は、その反対の決心を最も誠実なものとみなし、人間の最も尊い職業(聖職者をいう)には、結婚を許さない。われわれが、最もやくざな馬を、種馬に当てているようなものである。


▲近くの天王寺。灯篭がある石庭で、発話の必要のない空間はありがたい。たいそうな庭ではないが、心を鎮めてくれる。

 




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