小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

寡黙だが、賑やかな子供たち

2017年10月18日 | 日記

 

 

品川区に私立「明晴学園」という聾学校がある。幼稚部・小学部・中学部があって、それぞれ10名程の募集定員なので、入学するには狭き門なのかもしれない。
先日、この学園の小学部を特集したテレビを見、生き生きした子供たちに感動した、というより驚いた。

なんといってもみんなが素晴らしい手話の使い手で、惚れ惚れするほどの、その鮮やかな手の動きに見入ってしまう。
無邪気だが自信あふれる表情、ためらいのない感情表現。一連の仕草、動きが素晴らしい。(もちろん、字幕があるから彼らの会話内容の豊かさが分かる・・)

私事ながら手話を学ぶ身である。だからといって、ひいき目で彼らを見ているのでなく、心からそう思う。どこにでもいる普通の子どもたちと比較しても、彼らの溌溂さは段違いだ。

手話で会話しているので、もちろん声はない。見ているだけだと、テレビカメラに向かって喧しく話しかける感じ。口から洩れる息や、衣擦れの音、子供同士の体が触れあう音。時折、叫び声というより、弾むような明るい音声。

授業中になると、学びの姿がまた良い。集中する真剣さ、興味をもち始めたときの浮き浮きした姿。その嬉しさと元気が余って、机をたたく優しい音。いっしょに椅子が揺れるゴトゴトする音も聞こえてくる。

全国にどれくらいの聾学校があるか知らないが、第一言語を手話にしているのは、この「明晴学園」だけとのこと。ふつうの聾学校では「口話」を優先して、教育をすすめている。鏡で見ながら、口の開け方、息の出し方を覚えて、発声のコツを体得させるのだという。障碍といえども、難聴から聾(ろう)まで、その程度は個人差がある。また、成長するに従って聞こえなくなり、やがて聴覚を完全に失う人もいる。



私たち健常者からみれば、彼らは障碍をもっていると見なす。それは、私たちの側の偏見であり、差別の土台をつくる源といっていい。

耳で聴こえないこと、目で見えないこと、話せないこと、歩けないことetc.・・そんなこと、彼らになんら責任もないし、彼らの親も同じだ。

ハンデのある人を、私たちの社会が見守る、寄り添う、ケアするだけの話。偽善でもカッコイイことでも何でもない。国家が傾くこともない(傾く国家ならつぶせばいい)。イエス・キリストやムハンマド、ブッダに任せて済む時代でもなくなった。どんな人とも共に歩んでいく、それがごく普通の、日常のことでありたい。


出産時の医療ミスで聴覚を失うケースがある。もちろん、先天的に聴覚障碍をもって生まれてくる乳児がいる。その事実を、医者はもちろん両親でさえも判別できない。生後何か月かしてから、障碍に気づくケースも多い。言葉をきちんと話しだす2,3歳になって、やっと親が子の難聴に気づくこともあるという。(耳が聞こえないことを、誰が責めているのか?)

「明晴学園」の子どもたちはまず手話を覚え、先生や友達との密接なコミュニケーションをめざす。自己を明確に表現し、「他者」のことを理解するため手話を使う。普通の子どもたちよりも、仲間たちと交流することに無上の歓びを感じている。(※)



でも、ここまで書いてきて、はたと立ち止まる。彼らが成人して社会に飛び出ようとする時のことを考える。手話はいわば少数言語であり、社会にはまだ浸透していない。就職、結婚などにしても聴覚障碍者に対する差別・偏見はあるだろう。「世間」はまだ余裕がないのか、手話を使う人たちを温かく受け入れてはいない。

手話を使って生き生きした表情を見せてくれる「明晴学園」の生徒さん。彼らの未来に、世間からの思いもよらない偏見の壁、それこそ「見えない障害」が行く手を遮るのではないか・・。


子供たちの個性や自主性を重んじている「明晴学園」は、そんな私の思いを杞憂であると笑い飛ばすだろう

手話を第一言語にすることは実験だが、現実の子供たちは手話を使い元気そのものだ。その明るさ、前向きな様子が評判となり、学園に入学させようと北海道から引っ越してきた家族もいる。

注目すべきことは、第二言語を「日本語」にして語学力、作文力を高め、小学生でもたいへんレベルの高いリテラシーを醸成している。番組内では、6年生クラスの作文指導やディベートの授業風景を放映していた。「日食」の瞬間をいかに文章表現するかで悩む男の子。名文とはいえないが、文句のつけようがない生きた文章に仕上がってゆく。

ディベートのテーマは、「野生の動物と、動物園の動物とでは、どちらが幸せか」。どちらの側も甲乙つけがたい百出の議論。彼らの語学力、話す内容は、中学生以上のレベルさえ感じさせる。いや、ある意味で大人なみの思考力と想像力で、動物の幸せを考えて討論を楽しんでいた。サンデルも超えていた。

 そんな中でも、手話ニュースや記者会見などでの通訳が認知され、今年はデフリンピックも紹介された。しかし、「明晴学園」の未来はどうなるか誰にもわからない。

子供たちがどのように成長していくか、少なくとも私には分からないが、大いなる期待を抱いている。心から応援している。


 

 ▲以上の写真はすべて、NHKのEテレビ「ハートネットTV」から「静かで、にぎやかな学校」の放送映像から使用しました。



(※)一般的な聾学校では、口話の次に手話を学ぶのが通常のカリキュラムなのであろうか。聾学校で手話を教えるようになったのはまだ歴史が浅く、高齢の聴覚障害者のなかには手話が使えない人もいるらしい。

追記:「明晴学園」の経営母体は、たぶん日本財団である。その組織イメージや社会的評価等については、このブログには書かない。その理由は、「明晴学園」の教育方針・内容とは、まったく別の事柄であるからだ。

 

 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (NHK紹介番組を見て)
2019-05-06 06:31:20
子どもたちが元気でとてもいいと思った。
その反面、手話を知らない方とはコミュニケーションはとれないだろうというようにも思った。

手話に上達した子どもたちは、みんな手話で話してほしいという欲求があるように思った。

これをそうでない方々に強いるのは無理な話だろう。
彼らがそうでない方々の方に歩み寄らねばならないのではとも思う。

医学的解決方法に道がありそうな気もする。
返信する
マイノリティへの見方(味方?) (小寄道)
2019-05-06 09:49:52
コメント感謝します。
手話を使う子どもたちは、自分のことを障碍があるとは思わないし、そう思いたくないはずです。
ですが、自分たちの存在が、社会的マイノリティであることは、成長するにしたがってその認識を深めるでしょうね。
でも、多くの健聴者に、彼らは手話を強制しようとは思わないでしょう。尊厳さえ認めてくれたらそれでいい、そういう謙虚な大人になってくれたらいいと、私なんか思います。
仰る通り、医療やテクノロジーの進歩によって、この種の問題は確かに改善されているようです。今は、それに期待しましょうか・・。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。