やや肌寒くなって来て、温かいお茶や珈琲が嬉しい季節になった。
詩想を練るにも思索に耽るにもまずは世事を忘れてぼんやりする事が肝要で、ぼんやりするにはお茶は最適だ。
以前珈琲は黒織部の沓茶碗で飲んでいると話したが、季節感の違いや花器や皿との色合わせもあって、まだ一生一碗まで絞れずに幾つか気に入ったカップを使っている。
日々の卓上の彩りを考えるのもまた楽しいものだ。
さて今日の本題の茶菓子は老舗の高級品も良いが、隠者には眩し過ぎて似合わない。
隠者用なら特にこの時期、柿や芋栗などの自然の秋菓に勝るものは無い。
珈琲と素朴な秋果の味覚は野趣に富んで案外合うと思う。(私は例の血糖値の呪でもう食べられないが、句画の題材に見た目だけでも良い。)
季節の茶菓に好きな音楽でぼーっとする時間は、精神生活の向上に欠かせない。
---暗黒史語るに柿を剥きながら---
(高麗小壺 三島皿 粉引碗)
一方抹茶は茶器や菓子の取合わせなどの約束事が完成されている分、自由さには欠ける。
自由を求めるなら茶道成立以前の鎌倉室町時代に戻るのが良いかもしれない。
元来抹茶は薬の一種で、禅の「喫茶去」とは「茶でも飲んで目を覚まして来い!」と言う意味であった。
その頃は庫裏でかき混ぜてさっと飲むだけだったのが、後世の煩雑な作法で現代人には見放されてしまった。
ただ今日でも抹茶の味や茶器には捨て難い魅力があるので、かき混ぜるだけの胡座手前で飲むのをお勧めする。
これこそ鎌倉古流だと強弁すれば、ぼーっとして作法を守らず幻想世界に浸っていても誰にも怒られないだろう。
そもそも自由の戦士たるべき詩画人に、正座ほど似合わぬ物は無い。
(古信楽花入 宋三彩皿 古志乃茶碗)
---ゆく秋の破れ障子をはためかせ 胡座手前で推して参らむ---
©︎甲士三郎