オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

座禅草、秩父往還を行く、謎の謎

2019-03-18 10:59:35 | 歴史に埋もれた真実

 

 座禅草が、真っ盛りにパックリひらいていると聞き・・・そうだそうだ、真田の昌幸が夢枕に立ち、栃木は佐野の薬師堂に呼びだされてひそひそ話をしてきたのが先週末だったけんども、そのときに中津川渓谷と金山沢についての話がヒョイとあった。

 奥秩父は小鹿野の両神山の西側、岩場・鎖場好きにはたまらないエリア、中津川の源流にあるニッチツ鉱山はすでに閉鎖になっているが、ここには武田の時代に開発した金・銅・ナニやらの採掘場がもともとあった。

 廃村好きのモノ好きがヨダレを垂らす原風景が、そのまんま残っている。

 沢登り好きの変態でも、よく知っているエリアだろう。

 

 塩山市から大菩薩嶺の登山口を抜け、柳沢峠を越えると、黒川金山跡に辿り着く。

 武田の財政を支えたと言われる、大変に賑わった金山があった。

 哀しい遊女の伝説も残っている。

 その先を下りて行けば奥多摩湖・青梅へと道は繋がっている。

 青梅街道のことだ。

 そのもう一つ北側を登り進む古い道が秩父往還、雁坂みちとも呼ばれ、笛吹川の源流を辿るように甲府盆地から西沢渓谷を抜けて雁坂嶺の登山口を過ぎて行けば、大変な険しい山々が聳え連なっている奥秩父の山塊の主脈だ。

 まんずは塩山市から大菩薩の西側の尾根を歩いてみるか・・・ということで、座禅草の見ごろになっている玉宮から小倉山・高芝山方面へと登ってきた。

 あいにくの重い天気で、小雨もパラパラ、富士山も見えず、座禅草だけ見て雁坂峠まで行くか・・・とも想ったが、仕事が忙しくてこの頃はたいして歩いてないから、まだまだ生きていたいと思えばこそと、トボトボと歩き出した。

 

 座禅草とは、雪が溶けない時分に、自分の体温を25度くらいまでに上げて邪魔な雪を溶かし、そうして開花して見せるという高度な生態を持つ山岳に咲く花だけんども、綺麗とか可愛いという高山植物とはチョイと違ってる。

 体温を上げるとどうじに、独特な悪臭を周辺に放つ。

 そうして雪の残る山でウロウロしている昆虫類を呼び集め、受粉を行ってしまう。

 人間の女性の陰部の酸っぱい臭いもおなじ意味がある。

 人生60年、それに惹きよせられてる俺は、可愛い昆虫か・・・な訳はない。

 その座禅草の細胞にはミトコンドリアが大量に集まっているとは言うが、不思議な生態については現代でもなんら解明は出来てはいない。

 

 さて、信州から秩父へ抜けて関東平野に出る道は十石峠を越える難路だけんども、秩父から甲州へと抜ける秩父往還は、いまでは140号線が雁坂トンネルを通って一気に走り行けるけんども、当時でも相当な健脚でなければ通れる道ではなかった。

 昨日も、まだまだ樹氷やら雪がたくさん残っておったが、標高で2000m近い峠と険しい原生の森、登山者には優しくない山々が連なっておって、だからこそ俺なんかは大好きな山塊になってるんだが、戦国時代にここを2万の武田軍が進んだとかいう寝言が歴史書なんかで出て来ると、阿呆か? と笑うしかない。

 細い曲がりくねった道と、延々と続く急な登り道、獣道とさして変わらない道だったろう。

 江戸時代に出女・入り鉄砲を厳しく取り締まるために主要な往還には関所が作られたが、この秩父往還の山岳地帯、大滝村にも栃本の関所があった。

 とは言っても、秩父往還とは先に書いた通りの険し過ぎる長い道のりだった。

 にも関わらず、徳川の時代を迎える以前から、栃本には関所はあった。

 これは武田信玄が発掘させた金山が、この奥秩父にもあり、関東平野からやってくる北条家の軍勢を防ぐための関所であって、雁坂峠を越える旅人を取り締まるためのものではなかった。

 まったく逆の意味を持っていた。

 栃本の関所は、いまの140号線が通る場所よりももっと上の、眺めの良い場所にある。

 歩き疲れて、重い荷物をおろし、ひと息ついて、握り飯でも喰うには最高の景色が広がってる。

 

 武田信玄はあちこちに多くの金山を発掘して管理・運営させて資金作りを行っていたが、その金山発掘の余禄として、温泉もまた発掘している。

 戦い小競り合いの多かった戦国時代、傷を癒し半農半士で疲れはてた兵士の憩いの場としても、役に立っていた。

 奥多摩の奥にも、奥秩父のエリアにも、その当時に栄えた金山はあった。

 錬金術師というものは山を歩き見て、砂を手にして岩に触れ、湧く水を口に含み鉱脈を当てたとも言われているが、原生の山々を常に歩いておったから、獣道ですら迷うこともなく、伝って行きかっておった。

 その山々では近隣の山師や猟師や炭焼きの民を連れて歩き、山勘というものを身に付けていた。

 俺の古い知り合いの山好きには、偉そうな顔して山岳ガイドやらやってるチンチクリンがおるが、そんなスケベ根性が抜けない半端者とは違って、ホンモノの山の民が、常に一緒に歩いておった。

 天目山で討ち果てたという武田勝頼らを先導して、ここらの山塊を逃がすことは朝飯前だったろう。

 そうして徳川の時代になっても、奥秩父、秩父往還の大滝にある栃本の関所を守っていたのは、ほかならぬ武田勝頼の家臣だった。

 天目山で自害し果てたと言われておる勝頼の家臣が、徳川の時代になってもその関所を任されており、その大村家は明治維新までそこに代々棲み続けている。

 家康は敵対した武将であっても、後の憂いを考えて無闇に殺すことは憚った。

 弔いをして、死んだことにして、逃がしてやっていた・・・俺はそう考えている。

 その後の江戸時代が長く泰平の世を続けた意味は、その辺の統治の熟練にあるのだろうと思っている。

 終わらない戦乱の時代に、みな戦には飽いてしまってた。

 何年も奥秩父の山々を歩き登っているうちに、勝頼は死んではいない、そこから始まっている武田家のその後、南房総にある里見の菩提寺に武田信勝が建てたと密かに言われている里寺があり、そこの今の和尚に信勝の位牌を見せてもらい話をしたことでまた火がついてしまい、えらいこっちゃがな、忙しい毎日でもずっといろいろと調べている。

 二ホンオオカミが棲みついていた山々でもある。

 この辺の神社には狛犬ではなく、狛狼が鎮座ましましている。

 そうして奥秩父山塊の向こう側、川上村は柴犬の発祥の地でもある。

 興味は、尽きない。

 行きは中央道、帰りは圏央道から関越、結局は秩父往還をぜんぶ走って、ついでに武州街道も走ってきたがな。

 野猿や鹿が、のんきに飯を喰って居った。

 このくらいは、まだまだ日帰りで平気のさっさ。

 

 さ、仕事すっぺかや。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。