オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

メンドウな伝統など、捨てちまえ

2022-12-30 10:27:57 | 高齢化・介護という金儲けの呪縛

 

 今日は朝から高齢単身オーナーが住む八丁堀の古い賃貸ビルの共用箇所の全ての電球交換をやって差し上げて、一日が始まった。

 大手や素敵な不動産屋は、すでに年末年始のお決まりの猿の休暇に入っているが、こうやって、人のいなくなった年末年始にあちこちの高齢化したオーナーのところを回り、大工仕事や細かな作業を代わりにやって差し上げている。

 自営とは、こういうことを言う。

 ゼニカネの絡むところに、自分というモノは置かない。

 ゼニカネの絡むところでは、自分の欲求はナニも無い。

 独り暮らしの身寄りの無い高齢者のところに順繰りに顔を出し、困ってないかと笑っている。 

 包括支援な動きでもあるが、利益など最初から求めてない仕事だから、時間外も当たり前。

 これを30年以上も、淡々と続けている。

 一昨年・去年と、バブルを作って当社も系列会社も儲けさせていただいて、すべて借金・負債が無いので還元しているようなもんで、ゼニカネなんてそんなものでしかなく、見下して馬鹿にして生きれるようになって初めて、大自然の中で本当の生きて居る意味を知る、そういうことだ。

 

 ウクライナ極右勢力の薬物中毒が集うゼレンスキー一味は、アメリカのハリウッドに住み、その撮影セットの中で同じアメリカ架空大統領バイデンと会談し、あくまでも架空の存在として振舞っているようでもある。

 その架空の存在に脅かされて、煽動され、現場では多くの猿らが右往左往、甚大な被害が出ているが、これは新型コロナの煽動とまったく同じ連中が仕掛けている猿芝居だろう。

 人間の考えてやることなんざ、その程度のモノで、どんなに高度で精度の良いコンピューターが社会を管理していようとも、じきにボロが出て来るのは、人間が仕掛けている幼稚なお遊戯だからだ。

 馬鹿馬鹿しい。

 こういう愚かな社会は、一度リセット、崩壊まで行った方が人類の為だ。

 

 古き悪しき、無意味で硬直してしまってる風習や習慣のことを、この令和の時代にも頑なに守って、それが日本の良き伝統だとほざいて群れて生きてる奴らこそ、日本のことがナニも解ってないどころか、売国の徒として日夜メディアに振り回されて生きて居るという、滑稽な島国の特殊な猿社会が年末年始も日本中の風物詩になっている。

 伝統とは、しきたりや習慣や祭りやセオリーではなくて、厳しい島国で合理的に生きて来たという江戸時代以前の日本のことを言うのだが、外国の勢力によって鎖国させられて以降の江戸時代からは、そんな良き伝統がぐちゃぐちゃにされて、無意味な土民管理と、ゼニカネ一局集中社会用の奇妙な伝統ゴッコが始まってしまった。

 現代社会でも、メディア洗脳のゼニカネ儲け用の言語や会話と、実体の現実で生きるための言語は、分けて使うようになった。

 そんな簡単な日本人の日常の話ですら、意味が解らない大人たちがおるとしたら、もう終わっているさ。

 単細胞は、一種類の言葉と意味だけで生き、幼児服のまんま社会でも生きて来て、その時々の経験や成長に合わせて新調することもなく、これからの未来もおなじボロボロになって行く幼児服のまんま、高齢化して行く訳だ。

 価値観の話だ。 

 ナニが楽しくて、あなたは生きているのか? いつもまわりの死んだ目をした大人たちに聞いてやってる。

 小さな、平穏な、少しの、可愛らしい、そんな幸せがあれば、良いの・・・。

 では、幸せとはナニを言う?

 変わらない日常で、淡々と、笑っていたい・・・。

 没コミュニケーション、自閉的な社会は、こうしてネットメディア主流の無味無臭な社会を作り上げた。

 大声を出すことすら、大音量の音楽や騒音にとって代わってしまってる。

 迷惑な、話だ。

 他人や社会との関わり合いから逃げてしまってる高齢化社会では、いまだに身内や血族を大事にして、近親相姦な、隠微で閉塞感満載な孤独な日常を続けている訳だが、子や孫の代ともなれば、必ず行き詰まる結末は見えている。

 自分たち自身が高齢化して行ってすらその親や爺婆から教えられた風習や習慣を頑なに守ることが、優等生・善人だと信じているからこそ、社会は崩壊して行ってる。

 合理的に生きるには、要らないモノを片っ端から破壊して捨てて、新しいモノを作る作業が繰り返される。

 モノではなく、心という、形而上のモノをこそ極めて研ぎ澄まし、無駄でしかないモノには興味を持たない、そんな社会へと人類は変化して行かなければ、このまま地球上から淘汰される種になって行くだろう。

 ゼニカネがなければ生きて行けない社会が、その足枷になっているならば、まずその足枷を外すために自営の商売を始めて儲けを出すことから俺は始めた。

 ゼニカネに振り回されない資力を持ち商売を続け、そこからモノには左右されない自由自在な楽しみを手にする。

 まず先駆者に襲い掛かる災難は、その足枷の方だから、それすら乗り越えてしまえば、敵はいなくなる。

 こういう日常の境地に達するには、蔑んでいる一芸馬鹿にすら負けない体力や精力も身につけてなければ無理だ。

 どんなジャンルでも、そこの一芸馬鹿どもにすら負けない、なんでも出来る、人類の世界では敵はいなくなる。

 死ぬまで手を抜くことも無いわけだから、負ける訳が無い。

 勝って間抜け面して喜ぶことも、無い。

 

 毎年、店の神棚に俺が入る為に貰ってくる白紙のお札は、当然に身ぎれいな日常を送っている神社からもらってくるが、来年の俺が入る御札の為にどこの神社が優秀だったかと、あちこちでその日常を聞き込みして回ってもいる。

 参拝者が多くても、デカいだけで由緒だけで、薄汚い糞野郎が集まってる神社には、決して近づかない。

 俺様が入る訳だから、それ相当の苦行を日常に平然とこなしている神社でなければ、入る神は相当な鬼か夜叉だから、半年でそこのお札はボロボロに黄ばんで役に立たなくなる。

 

 このコロナ下で、身内の高齢者を自分たちで介護・面倒を見続けることは、至難の業と言っても良い。

 まず見る側の生計がギリギリで、余裕の無い借金体質であれば、これは叶うものでもないし、オツムの構造が暗記・偏差値至上主義者であれば、優等生・エリートになればなるほど、模範解答通りの軽々しい安易な行動に終始することになる。

 洗脳され、煽動され、その些少な猿の社会で競い合う悪癖しか持ち合わせてない訳だから、哀れなもんだ。

 こういう連中を子孫に持つと、高齢者たちは施設や病院に放り込まれて、資産家や財産家ですらゼニカネだけ巻き上げられて命を玩具にされて終わって逝ってる。

 俺は去年、資産すら食い潰して来た両親の状態に最後通告を出し、有無を言わせずに実家を整理し、銀座から歩ける、古いが管理は良くて日当たりは全室最高という2DKに引っ越しさせて、酷かった爺様の認知症も毎日の愉快な訪問で治してやり、直腸癌ですら、大病院から大病院を渡り歩いて、医者も多くの医者と話し合いを続けて、最期まで俺と婆さんで見守ってやるという態度は変えず、意見の合う在宅医療の先生や、ケア・サービスや、そんな腹を割って話せる人たちと日々のケアを続けて、自宅で、眠るように逝かせてやることが出来た。

 後悔というものが無い俺の人生の、一コマがまた増えた。

 笑って、送ってやった。

 決して愛する者は、他人の手には最期まで渡さない、これは俺の生き様でもある。

 子供らも、見ていただろう。

 医学や薬学や、最先端医療と言ったところで、この命を預ける相手がロクでも無い守銭奴や偏差値・肩書だけで生きて居る猿であれば、二度と頼むことも無い。

 今年の春は古女房のいきなりの癌ステージ4通告もあったが、これも医者や病院を選んで転院までさせて、後は俺の思い通りに連れ歩き、お見事秋には快癒までこぎつけた。

 俺の大反対を無視して、職場の居場所を守る為に、コロナワクチンを2回うっていた。

 命のことは他人には任せっきりにはせず、主導権は常に俺が持つ、おかげで病気や医学についても、知識はどんどん豊富になってるから、大病院の看板に甘ったれてる医者なんざ、説き伏せることすらある。

 ダメな患者と取り巻きが、どんだけゼニカネ積み上げて任せたところで、ダメな医者や病院では、それがメディアで有名な大学病院や大病院であったとしても、最期は哀れなモルモット。

 肝に銘じておくべきだろうな。

 常に現場で実践して生きて居る俺には、その足元まですべてが丸見えになってしまってる。

 愛すべき者を、安易に他人の手に渡して、良いのか?

 現実だけで生き、宗教や精神の世界なぞには見向きもしない。

 それが根本にある。

 それが出来てから、精神の世界の遊びは自由自在になる。

 

 独り身になった婆さまのとこには毎日顔を出し、生活の大転換を進めている。

 部屋の模様替えやら要らないモノの断捨離、そうやってすぐに動くことで感傷ボケを防ぎ、爺様の供養は俺のやり方でやっている。

 糞みたいな宗派やしきたりなんて、いっさい興味が無い。

 88歳でも暴走気味の俺の母親だから、アメ横に一緒に出掛けたり、買い物に出掛けたり、お屠蘇を買ってから喪中だったことを思い出したり、笑える日々は続いているが、寂しく独りにしないようにと、周囲の人間にも協力してもらって、ご飯を食べに行ったり、オモシロイ余興を見たりと、新年も予定を入れてやってる。

 人間は、立ち止まることなど、出来ない。

 動きながら次へ次へと生きて行くだけだ。

 


銀座の周旋屋に年末も新年も無い

2022-12-28 10:56:40 | 銀座の周旋屋
 
 

 自営には、社会の動きとは違う日々がある。

 サラリーマンらが呑気に年末だからと休暇に入っていても、31日・1日も仕事が入っている。

 逆に間抜けなサラリーマンや公務員らがせっせと組織の歯車になって単調な仕事に精を出している時に、悠々と空いてるところに出掛けて、安く遊んでいる。

 これは30年以上も前からそんな感じだ。

 群れの傍で仕事はするが、群れに入ったり染まったりすることは、無い。

 鹿の群れの傍で、一匹の狼が獲物を狙っている、そんな感じだろう。

 俺は社員を抱えても1週間でクビにする手の偏屈な爺ィだから、なんでも自分でやらなければ気が済まない。

 そういう自分を解ったうえで、最初から会社は大きくするつもりもなく、その代わりに古臭い軽薄間抜けな身内とは縁を遠ざけて、新しい身内を増やして来ている。

 困った時だけ寄って来る古い身内なんざ、その怠惰な日常では吹っ飛んで、居所はなくなってしまうだろうよ。

 新しい身内はみな、それぞれに資力も社会的にも、色んな力を持っている。

 メディアには靡かず、個であっても、力強く生きている獣しか、俺は興味が無い。

 

 当社は、他社をいっさい入れない都心商業地の売買がメインの周旋屋だが、それ以外にも賃貸や管理や内外装の工事や、不動産業の全般の仕事をこなしておって、他にも老舗の辣腕弁護士事務所の先生たちからの依頼の不動産仕事もやってたりする。

 そんな絡みで身寄りの無い、独り暮らしの高齢者たちが住んでいる古いアパートの管理も都内ではあちこちでやっておって、毎年何人かは、そこで死んで逝っている。

 発見が遅れないようにと、仕事の合間に顔を出すようにはしているが、顔が腐ってしまっていた遺体を発見したり、時々はそんなこともある。

 孤独な高齢者は人付き合いを避けるように、暮らしているケースが多い。

 生活保護受給者だったり、区の福祉や介護、包括支援センター、警察・消防とも連絡を密にして、動いているケースも多い。

 これらの仕事は大きな売買をこなして得た収入を使って、文字通りのタダ働きになっている。

 誰もやらないから、俺がやっている。

 昨日も、そんな高齢者の一人が、動けなくなっていたので、福祉の方と打ち合わせをして、施設に転入させる動きをしていた訳だが、出て行くにしても、部屋の鍵すら紛失しておって、鍵の付け替え大工仕事までやっておった。

 管理しているマンションでは、防犯カメラをつけて、WI-FIでその画像を確認できるようなシステムも導入して、事件や事故を事前に防ぐような動きもしているが、新しいシステムを理解するのも老いぼれには大変ではある。

 今年も、そんな管理物件で何人かの高齢者が逝き、残務整理をやってやり、高い山の頂から天に還してやった。

 すべて身銭を切ってやっている。

 だからこそ、政治家や大企業経営者やらがいても、俺は 邪魔だから、どけ!! と威張って生きて居る。

 弱みを持たずに、他人や社会の為に生きて居る日常に、絡んで来る奴がいるとしたら、よほどの阿呆だろう。

 失脚・倒産・破産・夜逃げに離散、俺が種を撒いておくだけで、みみっち~奴らは淘汰されて行くだけだ。

 それだけの信用と人脈と子飼いにしている忍者も、あちこちに放ってある。

 周旋屋を、舐めんなよ、だ。

 

 関東近郊に住まっておられる代々の資産家・財産家の古い顧客には、銀座にマンションやビルを所有しておられて、それを当社が管理させていただいているというケースも多い。

 大手や他社に比べて、その管理料や費用についても、当社はそれを儲けだとは考えていない為に、格段に安い。

 あくまでも不動産業の儲けは土地建物の取引で頂く、これが本業であり、近親者や身内で儲けるというような、姑息な営業もやってない。

 メンドクサイ、ということもある。

 利益をあげようと思えば、幾らでも名目はつく些細な日常の広範囲に渡る営業は、あくまでもサービスにしている。

 世間一般では、御用聞きのルート・セールスのことを営業と呼んでいるが、本当の営業・セールスとは、常に新規の開発に専念して、狩猟に出るのが日課で、守りに入るようなことは決してしない。

 そんなその日暮らしも長く続けると、自由自在な余裕が身について来る。

 一朝一夕で真似のできるものでもなく、口だけ言葉だけ恰好だけネットだけでは、出来ない芸当だろう。

 

 新しい年になっても、もっと凄いことをやってやろうと、ほくそ笑んで、年末の街を走り回っている。

 


地獄に落ちろ!とは、俺の言い草

2022-12-26 11:57:34 | 地球と生きる

 

 昨日も、ネットなどでは名前すら出てこない、人の寄り付かない2000m弱の雪山を三つばかり、獣たちの足跡を追いかけるように、息を切らして登り歩いて来た。

 当然に、人間などいないだろうと思っていたら、先行者の足跡が一人分、残っていた。

 アイゼンやワカンもつけてない、素の登山靴の足跡だった。

 奇妙な、偏屈な人間も俺以外にもいるもんだと感心しながら、そのおっかない足跡が凍り付いているのを確認して、1~2時間くらいが経っていることも解った。

 絶景だった。

 気温も、先週の雪山よりも高く、風もぜんぜん大丈夫で、尾根に乗れば、雪道は不明瞭だったが、快適軽快な雪道散歩に変わっていた。

 車を停めての準備中に、激しい獣臭がしておったが、その後は鹿のぴ~ぴ~だけで、可愛らしい山鳥の飛翔を見るくらいで、タヌキやキツネやウサギや熊公ですら、姿は見れなかった。

 人間が近寄らない山、それは天国と言っても良い。

 三つばかりの雪に覆われた頂を登り降りして、三つ目では恒例の中本の旨辛飯を喰らい、胃袋を熱くしておいて湧きたてのコーヒーを飲んだ。

 林道まで降りる道が雪に覆われて不明になっていたが、先行者が消えたピンクテープに迷い始めていたであろう足跡が、それでも真っすぐに進んで行ってた尾根から、早めに夏道の記憶を頼りに横にそれて下山にかかったが、ズボズボとアイゼンを履いた足は埋もれて行って、楽しい雪遊びになっていた。

 こういう山では、ピンクテープすら無いことが多い。

 関東から北の山々は、毎週毎週、何十年も登っているから、夏道の位置くらいはどこの山でも解っている。

 それよりも、先行者はアイゼンやワカンもつけずに大丈夫だったのか? 心配はあったが、そこで死んでしまったら、本人の準備不足、俺もおなじ立場だからそれ以上の思案は気が散る余計な話だ。

 すぐに雪団子が凍結して、アイゼンにこびりついて高下駄になっていた。

 下りは小まめに落としていかなければ、滑落する。

 そんなことを繰り返しながら汗だくになって雪が凍結した林道まで降りたら、下方の林道を小股でトボトボと片足を引きずるように歩いている登山者が見えた。

 道を間違えた野郎だろうとすぐに解った。

 アッと言う間に追いついて・・・大丈夫か?・・・笑って聞いたら、苦痛に顔を歪めながら・・・なんとか、こうやって車まで戻ります・・・そうか、雪山は修行の場でもあるから、放置して先にスタコラサッサと下山した。

 車に戻り、先行者の車の横につけ、降りて来るのを待っていたら、1時間くらいして、痛々しい歩き方で戻って来た。

 人間は散々に痛い目に遭わなければ、知恵は働かない、そういうことだ。

 他人や社会はナニも手助けにはならない、甘ったれた連中は大自然の中には来るな、獣たちには迷惑なだけ、肝に銘じるべきだ。

 雪山は見通しが良いが、道を間違えると凍り付いた斜面に雪が乗っていたり、落ち葉が乗っていたりして、ズルッと行ったら止まるまでは無駄な抵抗。

 だいたい、ナニが起こったのかは想像がつく。

 笑うしかないが、そうやって死んで行ってる愚かな登山者も、多いんだぜ。

 俺はアイゼンですら、切れた時の予備を担いでいるし、修理用具も担いでいる。

 人間のいない雪山に入るには、それ相応の緊張感も常に持ってはいるさ。

 毎週毎週であっても、当たり前の話。

 ・・・運転できるのか?

 ・・・はい、なんとか帰ります

 

 11日に亡くなった爺様の遺影の横には、初七日先週に登った雪山の写真を飾ってあるが、昨日はもっと素晴らしい絶景の写真を、並べてやった。

 ちっぽけな人間界で、朝から深夜までグダグダメディアに踊らされて消費生活に明け暮れて、競い合ってる猿以下の連中の哀れさが、とことん解るだろうよ。

 こうやって俺は生きているが、借金・負債などビタ一文も無く、悠々と先も読んで準備すら終わっている。

 小さな人間社会で生き抜いて行く方策など、野ウサギの屁みたいなもんだ。

 

 さ、まだまだ利益の上がる契約仕事が残っているから、早朝にバイクを飛ばして店に出て、頑張るべ~よ。

 うだうだ旧習や怠惰な習慣に溺れ切っている大人社会はみな、地獄に落ちろ!だな。

 それが自然界の、健全な淘汰という奴さ。

 


売れても債務が残るなら破産しろ

2022-12-21 11:30:27 | 銀座の周旋屋

 

 寺の坊主や、神社の神主やらが、新型コロナ騒動に一緒に踊ってタコ踊りをしている姿は、いただけない、猿回しだった。

 こやつらも、断捨離の類に入っていることが、あからさまに浮き彫りになっていたが、他にも、糞にもならないメディア奴隷ばかり、これを酸鼻という。

 

 老いて、後悔をしてもナニも始まらない。

 流されて、自分の意見や主義主張は持たず、その育った環境にどっぷり浸かって、自分を変えることなどすることもなく、良くないことが起これば、親や先祖や社会が悪い、悪霊や憑りつかれた目に見えないモノのせいにして、ひたすらに被害者意識に自惚れて、自己弁護と自己正当化に生きる、こういう手の大人社会は、宝くじを買って、神社・仏閣に祈願して、良いことが起こるようにと願う日々。

 すべては自分の内にあり、その自分自身をどんどん変えて生きて居る者から見ると、その怠惰で卑怯な生き方には同情の余地は無く、自業自得だと言い放って終わりだ。

 酒に溺れ、無意味な時間潰しに明け暮れて、薬に頼り、無意味な予防医学に明け暮れて、後悔だけの老後。

 人類の世界では、その立ち位置が決まった時点で、終わりまでの流れも決まってしまう。

 皆がうつから、メディアで煽られるから、国家が奨励するから・・・ワクチンをうってる者は、すでに自分自身の命の責任すら、放り投げて、知らん顔。

 そんな単細胞な足元を見透かされた大人たちは、死ぬまで玩具にされて生きるしかない。

 

 もともと地球上にあった物質を使ってしか、新しいモノを作れない人類は、どんなに画期的で斬新なモノを作り出したとしても、所詮は地球にはなんの関係も無い、大きな振動を加えたり、気流を変えるのが関の山で、ゴミだの二酸化炭素だのと騒いだところで、それは人類のみみっち~世界だけの利益誘導行為で終わる。

 地球や宇宙には、なんの関わり合いも、無い。

 

 コミュケーション能力の足りない身勝手な大人社会が、新聞・テレビにネットで事足りると妄信してしまい、これから大量に老いて介護される側になるとき、養豚場の豚のごとく酷い扱いを一律で受けるようになり、自己主張をキチンと会話の中で出来ない大人には、そこから抜け出す術はなくなってくる。

 言いたいことを言う、キチンと主張する、独りになっても堂々と胸を張って笑い飛ばす、あんたに出来るかな?

 人間界での凄まじい経験の積み重ねと、凄まじい独学の積み重ねと、凄まじい大自然での修行の積み重ねと、もっともっとと緩めることなく突き進む精力と、それらを身に着けていなければ、これからの世界大混乱には敵わない。

 いちいち言わなくても解ってくれる? そんな大人社会なんざ、いまの時代には望むべくもない。

 オツムの容量が小さくて、脳味噌もカラカラに乾いてる相手に、まともな理解力を求めることなど叶わない。

 そのまともという基準すら、無いに等しい時代だ。

 行く末、結果の見えている大人たちに、どんな会話が出来ると言うのだろうか?

 少なくともコロナ騒動では、そんな軽薄な連中はワクチンをせっせと競ってうって、淘汰の名札を付けている。

 もともと世の中社会なんて、そんな猿の集合体だったと言えばそれまでだが、令和の現代では、破綻だろう。

 

 2年前から言ってることだが、政府が治験の足りないにも関わらずに うて!うて! と言うばかりのワクチンを、せっせと言われるがまんまに従っている国民は、すでに自分の命の責任を放棄してしまってる訳で、そのオツムの限界を晒している、そんな惨状を眺めて来てはいる。

 俺の仲の良い古い同世代の経営者たちは、最初からそんな怪しいものなど関わらない、ただ社会で商売をする以上は口裏を合わせて率先参加、しているような優等生のフリだけはキチンとして来てる。

 本当にワクチンを何度もうって来た大人たちは、どういうオツムの構造をしているのか? 不思議な景色だ。

 これからワクチンによって破壊された免疫異常によって、死ぬまで惨憺たる難病・奇病の洗礼を受けるだろう。

 

 そもそもが、コロナだと言ったところで、インフルエンザの亜流でしかない訳で、俺のようにワクチンすらうたず、大笑いして山や海で遊び惚けているオヤジは、いまでもまわりの何度もワクチン接種してコロナに罹ってる間抜けな連中の看病をあちこちで続けている。

 濃厚接触者だと言えば、もっとも濃厚な接触者だろうが、なんの影響も無い。 

 微動だに、しない。

 子供たちを育てて来た時も、子供がインフルエンザに罹れば横に添い寝してやり、俺に全部悪いものは移してしまえ!! と、大笑いしていたオヤジだから、コロナごときは最初から敵では無い。

 とうぜん、インフルエンザすらワクチンはうったことが無い。

 こうやって笑い飛ばして現実を生きて居る人間が、もっと多くなればなんということもないんだが、メディアにすべての判断を任せてしまってる人類は、どうしようもない劣化を続けてる猿以下の昆虫になり果てている。

 予防医学にゼニカネつぎ込んでいる資産家・財産家・金持ち成金の猿らも、同類のお馬鹿でしかない。

 コネやツテに金を使って、庶民よりも早くワクチンをうったと大喜びの、猿。

 優秀な大学を出ているというエリートもどきらも、同類だ。

 単に暗記と知識の量だけで、偉くなったと自惚れている猿。

 自分のオツムを自分でコントロールできる訓練は、な~んにも出来てない。

 知識や暗記だけならば高度なコンピューターには、敵う訳もなく、最期は哀れな自爆しか残らない。

 

 ワクチンなどの余計な予防医学に自然免疫を壊された多くの人間は、接種した時だけは、そのウイルスに対してだけ強い抗体を持つが、他の大事なすでに持っていた自然免疫を台無しに破壊してしまってる。

 そうしてそのワクチンの効果は一時的なものだから、次に罹った時には自然免疫を壊してしまってるために、どんどん重症化してしまい、難病・奇病のオンパレード、儲かるのは医療・薬業の終わりなきウハウハ、阿呆だな。

 人間は、常に債務者の立場で生きるのか? 債権者の立場で生きるのか? その足元ですべてが決まる。

 洗脳され、煽動され、流され続けての無意味な時間つぶしの人生なのか? それともいつも真新しい自由自在な自分の時間を愉しむのか、真反対の結論になる。

 自分がダメなのは親や先祖のせい、悪霊や祟りのせい、上手くいかないのは神や仏を大事にしてないからだとか、墓が汚いだとか、常に自分以外のモノのせいにして、自分は正常だと思い込んでいる。

 すべては自分のせい、自分が足りない、自分の行動でなんとでもなる、そう、俺は生きて来た。

 自由自在だぜ、商売も、そうしてこれからやってくる世界の大恐慌も、すべての準備は終わっている。

 おなじ人類のやることなんざ、すべてお見通しになってしまってる。

 地球や宇宙の方が、遥かに解らないことだらけで、未知なる魅力に満ち満ちている。

 

 貧しい者こそ、見栄を張り、無理をして、虚勢を敷き詰め、無い癖にあるように無理して見せるもんだが、あればあったで必死に守ろうとし、憑りつかれたように増やそうとする魂胆は、心浅ましい猿の習性ではある。

 無ければ無いで楽しみ、あっても無いとおなじ楽しみに日を尽くし、ナニも変わらない者をこそ、大人と言う。

 大人とは、無借金・貸し借り無しで、すっくと独りで生き、自由自在に笑っているもののことを言う。

 住宅ローンですら、立派な借金だが、借金できることが名誉だと言わんばかりの時代は、もう終わってるさ。

 時間の無駄とはこのことで、自意識過剰なお子ちゃまが、騒音・狂騒・馬鹿騒ぎを続けるのとおんなじさ。

 金に追われ、金に喰われ、金に時間を奪われて、金に命を蝕まれる。

 俺も若い時分は随分と無茶をしてきたが、全責任を負って解消して来た。

 40歳くらいから、すでに借金するような阿呆なことからは、私生活でも業でも、足を洗っている。

 その場その場でキッチリと即断即決できるのは、そんな余裕があるからの話でもある。

 怖いモノが、ナニも無くなると、余計なモノもいらなくなる。

 これ以上にシンプルな生き方は、なくなってしまう。

 他人や社会がよく見えるようになり、隠しているものまで解ってしまう。

 間抜けな大人を気取った、幼児ばかりの社会は、悲劇なんてまるでなくって、猿のお笑い劇場だけだ。

 不良債権化した家や人間は、死ぬか、健康を害すか、はたまた自己破産するか、数えるほどの逃げ道しかなくなるが、我欲や見栄が原因でそうなった者は、最期の最期まで、親が悪い、先祖が悪い、社会が悪い、誰が悪いと、哀れな自分を正当化し続ける惨めな習性が抜けることもない。

 そんな猿が万が一、大金を掴んだとて、その後の生の時間は、決して満たされないまんま終わって逝っている。

 堂々巡りの、小さな見栄と我欲に振り回されて、そこに生きる幸せがあると考えていること自体、終わってる。

 すべてのことは自分の内にしかなく、その自分を拡げて行くしか生の自由自在さは手に入らないものだが、その自分は変えようともせずに、すべて他者に責任を求め続ける姿は、餓鬼そのもの、地獄へ落ちろ!と、俺は言う。

 我欲と見栄だけで積み上げた借財の山には、誰も振り向くこともなくなるのさ。

 誰も、助けてくれる訳もない。

 終わりにした方が、社会や他人のため、そんな守銭奴成金の姿は、この銀座でも腐るほど見掛ける普通の景色だ。

 哀れを通り越して、笑えはするが、感情は動くこともない。

 

初七日法要の代わりの、雪山歩き

2022-12-19 10:37:07 | 神々の話

 

 修行の足りない生臭坊主らが行う、くだらない初七日法要や49日だとかの酒飲みゴッコなど興味はなく、江戸時代よりも前のホンモノの禅僧らが修行に歩き登っていた山々に、出掛けていた。

 予定していた登山口に着くまでに道は雪道・凍り道で、4万キロ近く走ってる新車から3年目のスタッドレスで効くのかどうか、試しもあって山用の4駆で出掛けていた。

 ぜんぜん問題なく、ぐいぐい登っていた。

 最近の車は性能が抜群に良くなっていて、マニュアルの2駆で鉄のごっついチェーンつけて登っていた時代が嘘のように、楽にはなっているが、これからはスタッドレスでもチェーンは必携だ。

 車を停めた場所の気温はすでに氷点下、登山靴に履き替えるために外に出たらツボ足、エエ感じだった。

 とりあえずは脱出路をタイヤでならしておいてから、準備に取り掛かった。

 爺様の魂を天に還してやる第一弾。

 こうやって何十年もの間、関わって孤独死して逝った多くの人たちを天に送り続けているが、今回は年末の仕事も忙しく、葬式から1週間だから疲れがとれず、ま~ま~2000mにチョイと足らない低い山で、勘弁してくれや、という山歩になった。

 高天が原という場所は、昔は日本中にあった。

 アイゼンよりもワカンの方が良かったというような質の雪山になっていた。

 新雪はキラキラ輝いていて、綺麗そのもの。

 葉の落ちた木の枝に積もった雪が風で落ちてくるのを避けるように、そろそろ歩き始めた。

 富士山は半分から上が雲の中。

 空は回復基調の晴天。

 日の当たる道は良いが、日陰になると雪はガリガリ、耳当てをしてなかったので、千切れそうに痛かった。

 稜線に出て、頂上に辿り着くと、強風が襲って来た。

 氷点下7度、暖かい方だろう。

 山が鳴る、唸るとは言うが、穏やかに見える頂上では、山響き立てて風が襲って来ていた。

 ま~、2000mにも満たない低い山だから、湯を沸かす時はその音に気をつけておればよろし。

 ちょっと準備が足らなかったから、寒さは倍増していた。

 登りも下りも、人間にはだ~れにも会わなかった。 

 筋力・体力もほとんど使うことも無く、元気なまんまで降りて来た。

 春には80キロ超えていた体重が、なんやかんやで72キロまで絞れているせいだろう。

 自分で描いてる天気図しだいだが・・・来週は完全武装して、新潟の山に出掛ける。

 高所恐怖症だった爺様には、慣らしが必要だったろう。

 夜に戻っての翌日、婆さんには笑って報告しながら、飯を一緒に喰った。

 帰路、源泉に浸かる予定がオストメイト用の準備を忘れていたので、冷えたまんま戻ったが、俺自身も忘れ物が多くなったな~と、笑うしかなかった。

 

 青森から長芋が届いたり、北海道から魚が届いたり、群馬から採れたての野菜類が届いたり、銀座の周旋屋にはこの年末もいろんなモノが届いている。

 婆様も早めに祭壇を片づけて、とっととのんびり暮らしを満喫するらしい。

 最期まで、お見事よくやったと褒めている。

 頂きモノは、仲の良い近所の人たちにお裾分けするから、それはそれで忙しい。

 料理好きの婆様も、爺様がいなくなって、料理をする気持ちが失せてはいるが、少しづつ、尻を叩いて動かすつもりで、お裾分けを運んで行ってやってる。

 ・・・過保護にするな! とは皆、年寄りが俺に言うことだが、その健康と暮らしについては口喧しく言ってるだけで、ナニをしようが、ナニに金を使おうが、他人様に迷惑をかけない範囲であれば、ナニも言うつもりもない。

 知識が無い、経験が足りない、そういう高齢者ばかりを見守っていると、仕方が無いことで、長女みたいだとはまわりに言われることは多いが、その辺の長女よりも肌理細かい動きはしているさ。

 家を出たのが10代の頃だったから、その後の離れて暮らした月日の違いが物事の価値観の違いにも大きく反映されておるから、会話をしながらその溝を埋めることをしているだけさ。

 婆さんも、流石に俺の母親だけあって、1年で随分と垢ぬけた感覚で生きることを愉しんでいる。

 ま~、あとは好きにやっておればエエのんさ。

 徐々に生活のリズムが出来てくる。

 どんな世界になろうとも、常に借金負債貸し借り無しで、独自のバブルを作っては笑い飛ばして生きている俺が、これ以上無いだろう読みで愚かな人間界を見下ろして、しっかり見守ってやるわさ。

 

 さ、まだまだ商売の仕事が入ってきておるから、せっせと歩きまわるべな。

 どんどん会話か成り立たなくなってる幼稚な日本社会では、すべてのルールは俺が作ってなきゃ、アホ臭くてやってられんわな。