目が乾くようになった。
冬が来たということだろう。
ストマからの放屁も頗る多くなった。
気持ちの良い原生の森を歩いてきたからだろう。
銀座にいても息苦しさがなくなってくると、太陽を眺めてしまう。
・・・ああ、まだ生きてんだ・・・
不思議なことでもあるような、変な心持ちになる。
自分の日焼けした手を見て、動かして見て、まだ生きてことを実感する。
今からでもまた原生の森を歩き、高い山の岩峰から、遠くを眺めて居たいと想う。
いよいよ山で暮らした方がエエんやないかと、ぼんやり想う。
俺にはたくさんの親族がいる。
あちこちで女を愛して生きて来たせいでもあり、子供らもまたみな平等に俺が育て、可愛いがってきてるが、これは若い時分から常に自分は一匹のオスでしかないという想いがあるからで、決して親族は俺の所有物ではない、そういう確たる想いがある。
女や子供ですら、同等の人間だと想い、それぞれが自分の責任で生きて行くことが、命の意味だと想ってる。
自分と親族と、自分とアカの他人、これは同じものだ。
だから溺愛というものもなければ、無関心ということもない。
いずれはお別れの時がやってくる。
生れた時とおなじように、死ぬ時は誰しも、独りだ。
俺に愛想を尽かしたならお別れだし、追うこともなく、また新しい親族を作るだけのこと。
そうやって生きてきたら、どんどん親族が増えてしまってる。
独占する、自分だけのものにする、これはまだ歪んでる幼児性のなせる業でしかなく、しょせんは人間は独り、これが出発点とゴールだと知るならば、別になんということもないんだよ。
ただ関わり合ってる親族が増えると、頼られれば向かうことになる。
皆さんが幼児性の抜けない高齢者になっておるからこそ、還暦を迎えてさえ忙しいまんまだ。
一人一人が悠々と生きて居れるものならば、俺はもっと自分の時間が持てるわけだが、叶わないことだ。
人間社会とは、都合の良い錯覚と誤解と独りよがりな空想で成り立っている。
そこで愛だとほざいておることのほとんどが、たまたま気の合っただけの幻想でしかない。
本来の愛ならば、俺のように途切れることもなく、延々と続くものだろう。
愛するものが増えて行く、そうあるべきものが、いつも入れ替え、交換で終わってる現代社会は病んでいる。
哀れなもんだね。
俺は小学校では6回転校してるような家に育ったからか、早くから自分の愉しみを作ることが身について、世渡りの機微すら大人顔負けだったろう。
親にはいちいち相談などせずに、自分の好きなことをいつも見つけて生きて居た。
また友と別れ、また引っ越しがある・・・ごくごく当たり前のことだった。
駅のホームで電車が動き出し、せっかく仲良くなった友たちが走っておいかけ、ホームの端で手を振っている光景は、嫌というほど見たもんだ。
家族の座る客席にはいかず、デッキから流れる景色を、かすむ目で眺めて居った。
涙とは、身勝手な自己満足と自己陶酔の賜物だと知ったのは早かった。
いまでは涙はさんざんに笑った時にしか出て来ない。
きっと俺は後悔などしない生を生き抜いてやるぞ! いつもそう想っていた。
山は身近にあり、海も身近にあった。
そこでさんざんに遊び呆けて、死んでやる。
そうして女子供に囲まれて、笑い転げて生きてやる。
俺の9歳の頃の、夢だった。
そう、現実のものと、なっておるがな。
ごっつい高価な登山靴が1年で1足ダメになる。
車には常時古い登山靴でまだ履けるものは積みっぱなしにしてるが、それがとうとうダメになった。
2~3足はいつも履き替えているけんども、また1足買わんといかん。
普通の人ならゴミに捨てるようなボロボロでも、俺は履けるうちは履いている。
車と一緒で、馴染んでいるから、歩きやすいんだな。
ただグリップは落ちる。
で、急傾斜では、滑り落ちる。
それが限界だろう。
ソールの張替えは出来ても、その頃にはすべてがボロボロになってる。
いろいろと補修もするが、それも限界になる。
生き切る、それがモットーの俺には、履きつぶす、これも当たり前のこと。
腹のストマから、今朝も快調なプ~~が良く出てる。
良いことだ。