銀座の周旋屋は、青山や銀座やあちこちの一等地の商業地の地上げを独りでコツコツやってるかと思えば、生活保護受給者の孤独死のあと、その遺品を調べて身内探しをして、部屋の片づけや遺品の引き渡しまでしたり、思い出話に涙話を淡々と伝えたり、警察の鑑識とともに動いたり、区の福祉や包括支援センターと情報交換したり、火災が起これば消防とともに動いたり、なんでも首を突っ込んで行っているのが日常だ。
先日、管理しているアパートとマンションでボヤがあり、マンション屋上でのボヤについては消防で回収したアンテナを使った実況検分が行われ、その実験についても立ち会って、いろんなレアなケースの火災の話を聞いて来た。
いつもそのまんま山に登れる姿で、野蛮な態度で生きているから、乱暴な悪徳地上げ屋にされることも多いけんども、俺の連続放火の嫌疑は晴れた。
自然発火にもいろいろあって、その火災原因は思わぬ日常に潜んでいる。
警察の鑑識の話も、この歳になっても勉強になることばかりだ。
ただ、すべて守秘義務があるし、悪用されると困る話ばかりだから、書かない。
人間の世界に興味があるかぎり、知識は幾つになっても増えて行くが、オツムの容量が狭くなってるから、忘れて行く話もどうじに増えて行く。
孤独死した爺様には、千葉に住んでるらしいという親族を探し、その周辺の家に飛び込んで、一人ではなく二人、姉がいるとういうことがわかったが、これは区の福祉では教えてくれない話で、何気なく飛び込んで事情を説明し、高齢のためにその子息も交えて残置物の処分について丁寧に話し、承諾書にサインをもらう。
これをしておかなければ、勝手に処分したと後々に裁判になることもある。
下手な刑事よりも、書類作成や動きがスムーズなのは、長年の経験だけだろう。
ややこしい多様化した法律や規制のおかげで、われわれ周旋屋の動きも大変になっている。
そんな社会で合法的に動くには、それ相当の知識も持っていなければ、お縄になる。
そんじょそこらのテレビドラマや、小説や映画なんて、それに較べればお子ちゃま用の娯楽でしかない。
それでも皆さんは、感動して、感心して、染め上げられているが、人間の社会におなじ事件は二つと無い。
それぞれが抱えて生きているモノが違えば、当たり前のことだろう。
ただね、普通のサラリーマン不動産屋は、ここまで首は突っ込まない。
64年間生きてることが、すなわち周旋屋の仕事になっているから、やっている。
なんの利益にもならない仕事も生きている意味になってる、天職といえば、そういうことだろう。
メディアやネットを使って楽に金儲けをして、自分勝手に生きることがすっと出来るものならば、ある一定の軽薄お馬鹿な人間たちには天国だろう、が、世の中社会はそんなに甘くはない。
投資や運用もそうだが、ユーチューブだのなんだのでボロ儲けしてる連中も同じだ。
人間関係で直接に関わり合いの中に身を投じて、それで汗水流してクタクタになるまで走り回って、それが社会や他人のために働くということで、生きてる意味にも繋がっている。
資本主義とは、斬新なアイデアで発案すればいい、器用に面白いモノを作るだけ、上手に売ればいい、儲かったらナニをしてもいい、そんなそれぞれの専門分野だけで完結するものではなくって、トータルで責任を負わされ、トータルで評価されなければ、ただの高額消費猿の育成で終わってしまうことくらい、解ろうというもんだ。
資本主義の末期に登場したのが、電波を使った金儲けとは、墓場で繰り広げるお祭り騒ぎのことだろう。
安倍元総理の国葬、デジタル献花30万人にもいかなかった。
ネット社会では、国葬に参列しなくとも、デジタル献花は出来るが、人口1億人を超える国家の国葬で、その程度の数字にしかならなかったことを、世界には笑われていることだろう。
その辺の芸能人の葬式の献花の方が、はるかに多いだろう。
それもないか・・・メディアの盛り土も酷いから、田舎の情報弱者くらいしか、煽動されないか・・・。
大笑いだ。
トランプは、アメリカの世界覇権からの撤退を、上手く操縦しようとしていたが、国内の民主党勢力や大メディア群や、軍需産業の既得権益者たちから一斉攻撃を受けて、いかさま選挙で負けた訳だが、人気は衰退してはいない。
中露とも仲良くしながら、世界の大国として生き残る道を残していたが、バイデン認知症老人を盾にしている胡散臭い富豪連中がその道を自ら断ってしまったようなもんだ。
コロナ感染騒動も、そんな連中の幼稚な仕業だ。
アメリカは分断して、幾つかの小国家として残っていくだろうが、英国とともに、衰退は避けられない。
訪問介護に訪問看護、在宅医療などを頼んで、いろいろとその実態を自分の老いた両親で知ることになっているが、直腸癌を持つ身で、93歳で出来ることは、どんなに周りが有能であっても、限られて来ている。
手術して人工肛門にしたって、1~2か月の入院は必要になり、手術自体は上手く行っても、体力や気力の心配はあり、なおかつ長期の面会のできない入院で、去年酷かった認知症が治ったばかりのオツムが狂う確率の方がはるかに高いとなると、日常の会話と散歩に付き合うくらいで、他に動きようが無いのが本当のところだ。
患部がダメになったら、自然に任せて、痛み止めで緩和しながら終わりを待つ、これでやると皆に伝えた。
命より重いモノは無い、だから身内の身勝手な思い込みや調子の良い決めつけは捨てて、可能性を探して色々と対応をしてきたが、スタートへ戻るではないが、傍にいてやって、自然に終えれば良いと、そういうことになる。
生きるとはどういうことか? 死ぬとは、どういうことか? 自分自身で判断して決断しない高齢者を見ていると、つくづく国家に生かされて、メディアに振り回されて、医療に玩具にされてきた生涯が哀れではある。
どうしたら良いのか? ではなくて、どうしたいのか? それすらナニも無い。
俺なんざ、とっくの昔に答えは出してあるが、ナニが楽しくて生きているの? そんな景色は本当に哀れだ。
財力と権力を握れば、なんでもできると錯覚していたのが30数年前の不動産バブル時だったが、その前後からバブルのど真ん中で生きて来た俺なんかは、その後のファンドバブルやITバブルなんて時代にもど真ん中近くで生きて来たが、そこで有頂天になる日本人の成金・守銭奴具合が、どんどん姑息で歪んだ小さな猿に見えて来て、現代に至っているわけだ。
その家族や子や孫の勘違いはもっと異質で、どうしようもないくらいに酷く劣化していってる。
自分が神になってるのは俺もおなじだが、俺は消費散財はすることもなく、他人や社会に使ってきている。
住まいは地球、財産は地球の生き物、守り愛すべきは殻を破り生きるモノすべて。
さ、今朝も6時過ぎから、ごそごそ動き始めている。
世界は、第三次世界大戦に入ったようなキナ臭い、愚かな動きになったかな。