なんで美味い醤油ラーメンが東京にはないのか? については、昔から想ってることだ。
30数年前の不動産バブルの前後ですら、そんなことを想っていた。
ま~ま~美味い醤油ラーメン屋はあっても、これは力も入らず素直に喰える・・そんな醤油ラーメンがない。
もともと環境の変化は激しくとも戦後の高度経済成長ゴッコのド真ん中、裕福な銀行屋の家で育ったから、盆・暮れには貢物でいっぱいになる専用の和室があったりするモノ溢れの時代を俺は経験して居った。
その後そんな家には拠りつかずに、日本中のあちこちで仕事をしておったから、美味いモノも色々と食べて来た。
そんな美味いモノを喰って生きて来た周旋屋には、東京も銀座というところは仕事の拠点を置いておくだけのことで、とてもじゃ~ないが喰いモノを喰うところではない。
こんなもんで美味いと言ってるようじゃ~日本は語れない、昔からそう想っている。
当社の顧客には銀座や青山で行列の出来る人気の店も多いけんども、俺自身は喰いたいとも想わない。
ナントカと言う店で食べた!! その状況や行動に意味があるんだろうと想ってる。
美味いという・・・知識が無い、経験が無い、だからこそ舌まで洗脳され果てて百円均一、哀れな現代人だとは想ってる。
なんでも人それぞれ、生き方や価値観だって他人とおなじである必要はない。
模範となる先人なんていやしない、みな死を悟ってハッとして、惑い果てて居るではないか?
世界ではなく日本中を歩き回っておれば、美味いモノはいくらでもある。
名も無い店でもとびきりの美味いモノを喰わせる店だっていくらでもある。
要は、自分自身でそんな冒険を犯してまでして美味いモノを喰わせる店を探せない、行動力の欠如と、単に話のタネに、そんなことで行列が出来て居ったりするわけだ。
日常の会話を楽しむための、人気の店に人気のショップ、価値の共用で安心感を得るだけのことさ。
日本人らしいと言えば言える。
千葉の勝浦と言えば最近は勝浦タンタンメンで有名になっておるが、そこに昔から美味いと言える醤油ラーメンを喰わせる中華屋がある。
かれこれ30年以上も前から、外房でさんざんに遠泳したあとに、冷えた身体を温めるためにいつも立ち寄っている。
内房から勝浦に抜ける国道297号を行けば、じきに大多喜の街に出る。
大多喜城といえば本田忠勝で有名だが、もともとは真里谷氏の居城で、のちに房総里見家に奪われたが没収され徳川家康傘下に入り、それから本田忠勝の居城となった。
そこからほど近い山里に、波の伊八の彫刻の中でも有名な『波と宝珠』の欄間が残る古刹がある。
開山して1200年くらいになるという古い里寺だ。
まえまえから気になっておったお寺で、幻の名工と呼ばれて現存する作品がほとんどなくなってしまってる高松又八の彫刻とともに、拝見してきた。
波と宝珠の欄間よりも、隣の入り口に近い部屋の欄間の『波と鶴』のほうが、柔らかく繊細で目を奪われた。
欄間の彫刻は部屋の明かりを消して、座敷に座ってから眺めるものだ。
自然の光が作る陰影で欄間彫刻は生き還る。
季節や時刻、その時の天候によっても彫刻は七変化する。
本堂には高松又八の彫刻が見事に再生しておったけんども、俺はその伊八の彫ったという『波と鶴』の欄間が素晴らしく想えて再度見に行ったくらいだ。
葛飾北斎の代表作でもある『神奈川沖浪裏』とそっくりの構図は、『波と宝珠』の欄間を裏から見た構図で、だから葛飾北斎はわざわざ浪裏と題して発表したのではないかという解釈はオモシロイ。
であれば葛飾北斎もなかなかの器量だろう。
師の等琳を継いだ点描法で真似て描いた北斎も斬新だが、それ以前に波を立体的に彫った伊八の観察眼には恐れ入る。
豪華絢爛な大きな現代風の大寺院よりも、藁ぶき屋根のそんな里寺のほうが真実は多いのとおなじで、この日本には埋もれてしまっている歴史の真実はたくさんある。
ワザと封印し、隠してしまってる歴史の方が多いだろうし、それを知ることがまず第一歩でもある。
なんの第一歩か?
そう、日本人として故郷の島国を理解する第一歩だ。
又聞き・覗き見メディアが、いかにも自分の話のように語るのとおなじで、言ったもん勝ち、真似たもん勝ちの時代には、とくにそんな行動が必要になる。
パクリがホンモノを発掘するとは言うが、なんだかね~、それに甘んじる安易な安売り時代は気にいらない。
いつも想うことだが、その時代を理解し、その環境と境遇を理解し、そうしてその人を理解する、山や海で遊び呆けていると、こういう愉しいことはいくらでもある。
そうして帰りに美味い醤油ラーメンまで喰って、仕事の合間とはいえ、良い一日だったことには違いない。