関東平野の東西南北、いろいろ出掛けておった。
今年の方角を確認するために、思いつくあちこちに顔を出してきた。
よく冷えておったけんども、良い年になればエエが・・・。
先週に登った山の名前を、忘れてることが多くなった。
ずっと疑問に想ってる寺や神社や、歴史の再確認のため、山や海の帰りについでに訪れてる場所の名前も、すぐに忘れてしまうことが多くなってる。
あちこちで話していても、じきにその名前が出て来なくなってる。
・・・良い山だったぞ!
・・・どこの? なんて山?
・・・古い寺にさ、オモシロイ資料が残ってた!
・・・どこどこ?
・・・あ~~、なんだっけ、出てこんわ・・・
10年くらい前までは、まだ記録に残してたりしたけんども、いまでは一眼レフのカメラで撮るだけで、あとは放置して次の山のことを考えている。
書き遺すことは忘れないための訓練とは言うが、俺の場合は書いても忘れてる。
そこに問題意識や興味がないからだ。
固有名詞なんてものは他人へ伝える時に必要なものであって、自分で あそこ と解っておれば済む話だ。
他人へ伝えることすら、そこまで大事なことだと想わなくなってる。
そのとき、そこに一緒にいなかった奴に、その内容を伝えることなど、無理だと想ってる。
とくに創造力や発想力が一律貧困な現代人相手では、よからぬ誤解が拡がるのが関の山。
2000m以上の山ばかり登ってた時期から、1000m以上の眺望の良い山に裾野を広げたら、いちいち覚えておるかい!! というのが本音だ。
ただそこへ行く道や地形のことや、歴史の話になると、いろいろと覚えておるのは、いつも興味を持って考えておるからだ。
薄い関わり合いばかりをたくさん引きずって生きるような、政治家の秘書でもあるまいに、年賀状だの年賀メールだの、ラインだのツイッターだの、やってられるかい! というのが俺の実感。
いま、傍にいない奴には、用はない、それで良いんだぜ。
身内や血縁でも、もうそうなっておる。
いつも忘れ果てておるくせに、たまに会えばワザとらしい感激と挨拶の交換、やってられんわ。
大事なことを誤魔化すための、習慣・風習と言っても良い。
今年は雪が少ないとは聞くが、いつもの場所に少ないだけのことで、いつもとは違う場所ではよく降ってる。
人間の感覚なんてそんなもんで、だからこそそんな油断と妄信から、あちこちで自然災害の被害は広がってる。
都会の感覚はズレまくってる。
今年も、そんなズレから外れてキチンと生きて居たいもんだ。
言うは易し、生きて見せることはそんなに簡単じゃ~ない。