オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

神棚には自分を入れ一年を始める

2019-01-03 11:01:10 | 地球と生きる

 

 神社や寺では、清められた綺麗なお札をもらう。

 だからこそ、日々を精進している神社や寺でなければいけない。

 深川の富岡八幡宮では宮司の親族同士の殺し合いがあったが、俺はいつも元八幡様とも呼ばれている富賀岡八幡宮で札をもらう。

 日本の原始から続く富士山信仰の、富士塚がいまでもある古く小さな神社だ。

 そこで頂いたまっさらな札に、今年一年、自分を入れる訳だから、簡素でも古くからきちんと小綺麗にしている神社や寺を選ぶ。

 神や仏とは自分そのもののことで、それ以外にはいない。

 怪しい宗教や団体ではなく、俺一人のいつもの儀式。

 土人国家や後進国では、いまだに先祖や神や仏を信じて暮らしているが、俺はそうやって自分が神になって40年も過ごしている。

 2礼2拍1礼とかは、神棚に入れた自分と会うためのただの暗号だから、なんだって良いわけだ。

 自分と向き合うときに、神棚の札と語り合う。

 神で生きているか?

 すべてが自分から始まっている。

 自分が終れば、すべても終わる。

 霊だの魂だのは山の頂から天に帰り、肉体は地球に帰る。

 俺の生活はそうなっている。

 これが新しい年の儀式ではある。

 山々の頂にある古く朽ちた祠に行けば、自分を入れる。

 ・・・神が来たぞ!  と。

 その年の良い方角は、これからたくさん登るあちこちの方角の山で決まる。

 楽して決まることや、ゼニカネで決まることはナニひとつない。

 今年一年、また神で生きる、大変なことだが、しっかり愉しんでやろう。

 そのために、何千、何万という山の頂で神々と会い、俺を仲間に遺してくる。

 それが俺が60年、生きて来て作った自分なりの儀式でもある。

 区切りとして1年の始まり、そんだけのことよ。