小林正観「身軽で 毎日が幸せ」
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生きる大事 死ぬ大事
病院で死ぬ場合には
死に行くことを意識できる。
ということで 不慮の死について
話しながら 大事なことを伝える。
執着と未練のお話。
眠っていて事故。目覚めたら死んでいた。
自分が死んだことを意識していない状態。
死を意識できなくて 四次元の世界へ。
三次元的には何も出来なくなっている。
その亡くなった人は「地縛霊」として
両足が地面について 動けないらしい。
誰かが目の前に来て肩を叩き存在を
示そうとも 振り返ってもらえない。
自分が死んだということ
を認識できないでいると
認識できるまで ずっとその場にいる。
何年でも100年でもそこにいるらしい。
そこから去る方法が
たった一つだけある。
生きる大事 死ぬ大事。
生きているときは 「執着」
死んでしまった時は「未練」
その未練を一つ一つ捨てていく。
銀行預金通帳の金額が気になる。
子どもや家族の行く末。 仕事。
それらの「思い」を捨てていく。
おもいは 二つ
「思い」 経済的な未練
「想い」 人に対する未練。
思いは重い 想いは重い。
このことを忘れずにと 例えば
経済についての思いは50個の砂袋を持っている
人に対する 想いも50個の砂袋を持っている
この合計100個の砂袋を 捨てない限り
自分の体は浮かび上がることが出来ない。
その状態を「浮かばれない」
砂袋を捨てられた状態を「浮かばれる」という
自分の意思と力では
「浮かびようがない」
思いの砂袋をひとつ捨て
想いの砂袋をふたつ捨て と捨てていくと
地面にぴったりついていた足が
1cm2cmと浮かび上がる。浮かばれる。
この方法だけがその場所から去る方法です。
自分が3次元的に執着 死んでからは未練。
それを捨てない限り地面に張りついた状態。
その地縛状態から抜け出すことは出来ない。
縦に上に浮かび上がるしか
死後では方法がないんです。
魂の重しになっているのは 実に
「思い」「想い」の「重さ」なんです。
魂の重しとは「思い」「想い」
そして 100個の砂袋を捨てることが出来ると
50mくらい浮かび上がって その辺りで突然に
光のドームみたいなものが現れ 吸い込まれる。
重しが無くなってから 次の世界へいくらしい。
ここで大事な大事を 正観さん。
死んだ時に未練をひとつづつ捨てていって
100個の砂袋 捨てていくと 浮き上がる。
死ぬ時に 未練を捨てていくことで
浮かび上がることが分かっているのだったら
生きている間に 執着未練を捨てる。
今からひとつづつ捨てていきませんか。
必ず死ぬ。必ず未練は捨てなければならない。
捨てることなく決して浮かばれることはない。
生きているうちに捨てたらどうなるんですか。
私小林正観は 実証的に言うことができます。
正観さんの言葉のままに
思いも 想いも全くありません。
私は未練執着が全くありません。
未練がないから 生きる力が
ないのと言われるけど そうではありません。
目の前で起きることが すべて
嬉しくて 楽しくて 面白くて
幸せなことしかないということ
を分かっているから 小林正観は
毎日が幸せで幸せで 仕方ないんです。
こういうものが あっても構わないけれど
これがなければ嫌だとかというものがなく
執着をしていないので
すごく身が軽いんです。
実体験として
生きていることが 楽なんです。
砂袋がひとつもありませんから。
生きているうちに砂袋をなくしてしまうと
生きていることが ものすごく楽なんです。
こうなったらいいな
こうなったら楽しいな
と思うはいい。それは喜びの上乗せだから。
こうでなければイヤだ これが未練 執着。
それを抱えれば 抱えるほど
生きている事 歩いている事。
先に行くこと自体が 重荷
砂袋を背中に背負っていく事に他ならない。
40歳になって人生の折り返し点。
そこを過ぎたら 捨て去る作業。
若さを捨てること。
美しさを捨てること
頑固な性格を捨てること。
老いた父と母と別れること。
妻や子どもとも 家族親友。
40歳過ぎたら 捨て去る。手放す作業。
だから 子どもがこうでなければ
ならないという執着を捨てるんです。
目の前のこの子どもが
明日にはもういないかもしれない抱きしめる。
明日自分が生きている保証はない。
目の前の人も居るいう保証はない。
三昧堂
正観さん熱きメッセージ。
ネバならない 執着未練 思い想いの砂袋を手放し
今 目の前の 人モノこと を抱きしめるんですよ。
そして
語った姿のままを 見せて頂きました。
40歳以降の方々 正観さんそのままに生きましょう。
今回もありがとうございました。
すべての魂が 幸せでありますように。