中村天風先生が昭和41年6月8日及び昭和42年6月10日に講演された内容を編集して書籍にした「心に成功の炎を」(日本経営合理化協会)があります。
その中から要約します。
肉体は命の付属物
はっきりいうと、肉体は自己そのものではなく、自己の命のものなんです。
それはちょうど、皆さんが持ってるそのハンドバッグや、着ている洋服みたいなもので、それらは、皆さんの肉体じゃないね。それらは肉体が生活するための一つの道具なんだ。
それと同じことで、肉体も、自分と思うのは間違いで、本当の自分から考えると、それは自分の命の付属物なんです。
今まで、私は体が自分だと思っていた。自分のものを自分のものと思うんだったらいいけれど、自分のものでないものを、自分のものだと思う者は、泥棒だね、これは・・・・・。
この肉体を自分だと思って生きていると、生きる力が弱るんですよ。どうしても、肉体中心、肉体本位に生きるようになり、命の生きる力が衰えていく。だから、肉体を自己と思うような間違いは、絶対してはいけないんです。
今までは、おなかが痛かったら、「ああ、私が痛い」と、こう思った。その「私が痛い」という思いを、今度は天風式に、こう考えてみるのです。
おなかが痛いときには、第三者の人のおなかが痛いのと同じ気持ちをもつようにするんです。「今、おれの命を生かすために使う道具である肉体の腹のところが痛いんだ。私が痛いんではない。私が生きるために必要な道具のおなかが痛い」と思えばいいんです。
このように、私は肉体を自分ではなく、生きるための道具だと思っているのです。
命とは何だろう
それじゃあ、人間の命の正体は何だろう。自分の肉体も心も、生きる道具とすると、じゃあ、本当の自分っていったい何だろうということに突き当たります。
命とは何だろう。命というものは、こうして生きている現実の状態に対する代名詞なんです。生きていないものには、命があるとはいいません。現象界に活動現象をあらわして生きている現実の状態に対する代名詞のことを命というんです。
そこで、肉体が自分でないというのは、肉体が命の現実の生まれどころでないからです。
蛇口が水を作ったのではない
水道の蛇口をひねると水が出る。これを見て、蛇口から水が出たから、蛇口が水を作ったという人はいないでしょう。肉体も同じことなんです。肉体が命を作ってくれたんじゃないんです。
それじゃあ、肉体とは何かというと、命の働きがあらわれているところなんだ。働きがあらわれているところ、つまり活動現象の表現の場所と、それを製造している場所、あるいは生み出している場所とは違うんですよ。
宇宙エネルギーの「気」
じゃあ、命は、どうしてできた? およそ、この世にありとしあらゆる全ての生物は、みなこの宇宙エネルギーの中にある、生物となるべき「気(き)」というものが原因をなしているのです。
人間の考え方は不自由なもので、目で見、耳で聞こえるもんでないと、それは存在しないと思っている。ただ、空気と電気だけは、人は目に見えなくても、存在しているものと、今までの知識でもって、是認していますが、このことを、もっと突っ込んで考えてみてください。
今、皆さんがいるこの空気の中には、電波がいっぱい漂っています。しかし、この電波を見たものは、誰もいないでしょう。
しかし、確かにそれがある証拠には、精巧なラジオを持ってきて、ダイアルを回して、チャンネルが合うと、「オーストラリアのが聞こえてる。あ、今、英国のが聞こえる」と、その電波をキャッチできる。キャッチできるのは、電波がいっぱい漂っている証拠です。
また、庭に種をまかなくても、今まで霜、雪に閉じ込められていた泥の中から、春になると草花の芽を出る、アブが飛びだす、ハチが飛ぶ、蝶々が飛ぶ、・・・・・。皆さんは、当たり前だと思っている。だが、春が来ようが、夏が来ようが、宇宙エネルギーの中に、そういう「ありうるもの」=「気」がなかったら、何も出てこないんです。
次に、人間で考えて見ましょう。
ここで、カリアッパ先生が「気」で生きているといったのは、私たち一切の存在の中に一つの尊い気体=宇宙エネルギーが込められたということなのです。「気」が抜けたら、新しい生命を生み出せません。
「気」=「霊魂」=「魂」
その「気」が、俗にいう「霊魂」、もっとやさしく言えば「魂」です。
つまり霊魂という気体が人間の生命の根本中枢なんです。命のいちばん大根(おおね)大本(おおもと)がこれなんです。
この霊魂が、人間をつくる際に、人間の脳髄の中の間脳というものに入っていくんです。そして間脳から心を通じて肉体へ宇宙エネルギーが入っていく。
心と宇宙エネルギー
ここで大事なことは、心が積極的でなければ、この宇宙エネルギーが、生命の中にじゅうぶん豊富に受け入れられないんです。
だから、神経過敏な人がどんなに養生をしても、肉体が完全に生きられないということが、これでわかったでしょう。
このことが私には、わからなかった。明けても暮れても、病いばかり考えていた。これでは心はけっして積極的にならない。病いばかり考えてるから、この受け入れる「気」が、まったくストップされる。
つらい、苦しい、情けないと思う心ばかりが盛んに起こっている。当然、宇宙に「気」がいくらあっても、受けとる力というものが、まるきりストップしてしまっている。
そして、わずか肉体がもっている力だけで生きようとするから、何をしても丈夫にならなかったわけです。
ところが、一度、この真理に目覚めてからは、おれはまったく考え違いをしていたということに気がついた。
病いだから熱が出る、脈が速くなる、これはつらいです。だけど、丈夫なときだって、びっくりすりゃ脈も増えるし、寒けりゃ寒い、暑けりゃ暑いと感覚する。丈夫なときには、そう感覚しても、たいして心というものが消極的には感じません。
けれど、病気になると、同じ感覚であっても、非常に自分の心が消極的になってしまう。すると、宇宙エネルギーを受け入れる口がふさがってしまうんです。
この口がふさがったんじゃ、肉体のもっている力だけでは限界がある。心が無限大だというのは、宇宙エネルギーに通じてるからなんです。だから、宇宙エネルギーにつながって生きるためには、どこまでも積極的にいかなければならない。
このことがわからなかった。明けても暮れても、この体が自分だと思い込んでいる。肉体が自分だと思っているから、ちょっと脈が速くなったり、ちょっと熱が出たり、ちょっと体の調子が悪くなると、もう、天地がひっくり返るほど心配したもんです。
無碍自在の心境 こう悟るまで、死ぬんじゃないか、助からんのじゃないか、インドの土になってしまうんじゃないか、とばかり考えていた。
悟ってみれば、もう死ぬなんてことは考えない。ただ、きれいな景色を見ているときと同じような状態の心、つまり、無碍(むげ)にして自在の心境だ。人間は虚心平気、何事も考えないときが一番無事なんです。
こうなると、病いが生じようが、運命が悪くなろうが、本当に安心のできる人生に生きられるようになる。たとえ、病いだ、煩悶だというものが、仮にあったとしても、自分の正体が、「気」だということがわかっているから、少しもその出来事に煩わされなくなってくる。見えもしない、感覚もないものは、何ものにもダメージを受ける気遣いはないからです。
肉体は生きる道具
だから、こう考えるんですよ、今日から。肉体はわが命の生きるための道具である、と。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなってるんじゃない。自分の命を入れる入れ物に故障ができただけなんだ。そして、この故障は、ありがたいことに、心がそれから離れさえすれば、自然に治るようにできているんだ、このことを、感謝しなければだめですよ。一番肝心なことはここなんです。
着物が破れたら、人間はそのほころびを繕わなきゃならない。屋根が漏れれば、屋根屋を呼んできて、そこをふさがなきゃならない。
ところが、人間は、ありがたいかな、自分は何もしなくても、そこから心が離れさえすればいいんです。何故かというと、心がそこから離れると、消極的な観念がなくなるだろう。消極的観念がなくなると、肉体のもっている自然作用が、その場所をもとの健全な状態にするために動き出すようになっているからです。昔から「病は忘れることによって治る」と言っているでしょう。
いいですか。どんな場合があろうとも、自分というものの正体は、目に見えない一つの気体、ぜんぜん感覚できないけれど、とにかく現在の自分を生かしてくれているこの「気」が自分なんだ、とこう思わなきゃいけない。これが信念化すると、生きる力が強くなるんです。
その中から要約します。
肉体は命の付属物
はっきりいうと、肉体は自己そのものではなく、自己の命のものなんです。
それはちょうど、皆さんが持ってるそのハンドバッグや、着ている洋服みたいなもので、それらは、皆さんの肉体じゃないね。それらは肉体が生活するための一つの道具なんだ。
それと同じことで、肉体も、自分と思うのは間違いで、本当の自分から考えると、それは自分の命の付属物なんです。
今まで、私は体が自分だと思っていた。自分のものを自分のものと思うんだったらいいけれど、自分のものでないものを、自分のものだと思う者は、泥棒だね、これは・・・・・。
この肉体を自分だと思って生きていると、生きる力が弱るんですよ。どうしても、肉体中心、肉体本位に生きるようになり、命の生きる力が衰えていく。だから、肉体を自己と思うような間違いは、絶対してはいけないんです。
今までは、おなかが痛かったら、「ああ、私が痛い」と、こう思った。その「私が痛い」という思いを、今度は天風式に、こう考えてみるのです。
おなかが痛いときには、第三者の人のおなかが痛いのと同じ気持ちをもつようにするんです。「今、おれの命を生かすために使う道具である肉体の腹のところが痛いんだ。私が痛いんではない。私が生きるために必要な道具のおなかが痛い」と思えばいいんです。
このように、私は肉体を自分ではなく、生きるための道具だと思っているのです。
命とは何だろう
それじゃあ、人間の命の正体は何だろう。自分の肉体も心も、生きる道具とすると、じゃあ、本当の自分っていったい何だろうということに突き当たります。
命とは何だろう。命というものは、こうして生きている現実の状態に対する代名詞なんです。生きていないものには、命があるとはいいません。現象界に活動現象をあらわして生きている現実の状態に対する代名詞のことを命というんです。
そこで、肉体が自分でないというのは、肉体が命の現実の生まれどころでないからです。
蛇口が水を作ったのではない
水道の蛇口をひねると水が出る。これを見て、蛇口から水が出たから、蛇口が水を作ったという人はいないでしょう。肉体も同じことなんです。肉体が命を作ってくれたんじゃないんです。
それじゃあ、肉体とは何かというと、命の働きがあらわれているところなんだ。働きがあらわれているところ、つまり活動現象の表現の場所と、それを製造している場所、あるいは生み出している場所とは違うんですよ。
宇宙エネルギーの「気」
じゃあ、命は、どうしてできた? およそ、この世にありとしあらゆる全ての生物は、みなこの宇宙エネルギーの中にある、生物となるべき「気(き)」というものが原因をなしているのです。
人間の考え方は不自由なもので、目で見、耳で聞こえるもんでないと、それは存在しないと思っている。ただ、空気と電気だけは、人は目に見えなくても、存在しているものと、今までの知識でもって、是認していますが、このことを、もっと突っ込んで考えてみてください。
今、皆さんがいるこの空気の中には、電波がいっぱい漂っています。しかし、この電波を見たものは、誰もいないでしょう。
しかし、確かにそれがある証拠には、精巧なラジオを持ってきて、ダイアルを回して、チャンネルが合うと、「オーストラリアのが聞こえてる。あ、今、英国のが聞こえる」と、その電波をキャッチできる。キャッチできるのは、電波がいっぱい漂っている証拠です。
また、庭に種をまかなくても、今まで霜、雪に閉じ込められていた泥の中から、春になると草花の芽を出る、アブが飛びだす、ハチが飛ぶ、蝶々が飛ぶ、・・・・・。皆さんは、当たり前だと思っている。だが、春が来ようが、夏が来ようが、宇宙エネルギーの中に、そういう「ありうるもの」=「気」がなかったら、何も出てこないんです。
次に、人間で考えて見ましょう。
ここで、カリアッパ先生が「気」で生きているといったのは、私たち一切の存在の中に一つの尊い気体=宇宙エネルギーが込められたということなのです。「気」が抜けたら、新しい生命を生み出せません。
「気」=「霊魂」=「魂」
その「気」が、俗にいう「霊魂」、もっとやさしく言えば「魂」です。
つまり霊魂という気体が人間の生命の根本中枢なんです。命のいちばん大根(おおね)大本(おおもと)がこれなんです。
この霊魂が、人間をつくる際に、人間の脳髄の中の間脳というものに入っていくんです。そして間脳から心を通じて肉体へ宇宙エネルギーが入っていく。
心と宇宙エネルギー
ここで大事なことは、心が積極的でなければ、この宇宙エネルギーが、生命の中にじゅうぶん豊富に受け入れられないんです。
だから、神経過敏な人がどんなに養生をしても、肉体が完全に生きられないということが、これでわかったでしょう。
このことが私には、わからなかった。明けても暮れても、病いばかり考えていた。これでは心はけっして積極的にならない。病いばかり考えてるから、この受け入れる「気」が、まったくストップされる。
つらい、苦しい、情けないと思う心ばかりが盛んに起こっている。当然、宇宙に「気」がいくらあっても、受けとる力というものが、まるきりストップしてしまっている。
そして、わずか肉体がもっている力だけで生きようとするから、何をしても丈夫にならなかったわけです。
ところが、一度、この真理に目覚めてからは、おれはまったく考え違いをしていたということに気がついた。
病いだから熱が出る、脈が速くなる、これはつらいです。だけど、丈夫なときだって、びっくりすりゃ脈も増えるし、寒けりゃ寒い、暑けりゃ暑いと感覚する。丈夫なときには、そう感覚しても、たいして心というものが消極的には感じません。
けれど、病気になると、同じ感覚であっても、非常に自分の心が消極的になってしまう。すると、宇宙エネルギーを受け入れる口がふさがってしまうんです。
この口がふさがったんじゃ、肉体のもっている力だけでは限界がある。心が無限大だというのは、宇宙エネルギーに通じてるからなんです。だから、宇宙エネルギーにつながって生きるためには、どこまでも積極的にいかなければならない。
このことがわからなかった。明けても暮れても、この体が自分だと思い込んでいる。肉体が自分だと思っているから、ちょっと脈が速くなったり、ちょっと熱が出たり、ちょっと体の調子が悪くなると、もう、天地がひっくり返るほど心配したもんです。
無碍自在の心境 こう悟るまで、死ぬんじゃないか、助からんのじゃないか、インドの土になってしまうんじゃないか、とばかり考えていた。
悟ってみれば、もう死ぬなんてことは考えない。ただ、きれいな景色を見ているときと同じような状態の心、つまり、無碍(むげ)にして自在の心境だ。人間は虚心平気、何事も考えないときが一番無事なんです。
こうなると、病いが生じようが、運命が悪くなろうが、本当に安心のできる人生に生きられるようになる。たとえ、病いだ、煩悶だというものが、仮にあったとしても、自分の正体が、「気」だということがわかっているから、少しもその出来事に煩わされなくなってくる。見えもしない、感覚もないものは、何ものにもダメージを受ける気遣いはないからです。
肉体は生きる道具
だから、こう考えるんですよ、今日から。肉体はわが命の生きるための道具である、と。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなってるんじゃない。自分の命を入れる入れ物に故障ができただけなんだ。そして、この故障は、ありがたいことに、心がそれから離れさえすれば、自然に治るようにできているんだ、このことを、感謝しなければだめですよ。一番肝心なことはここなんです。
着物が破れたら、人間はそのほころびを繕わなきゃならない。屋根が漏れれば、屋根屋を呼んできて、そこをふさがなきゃならない。
ところが、人間は、ありがたいかな、自分は何もしなくても、そこから心が離れさえすればいいんです。何故かというと、心がそこから離れると、消極的な観念がなくなるだろう。消極的観念がなくなると、肉体のもっている自然作用が、その場所をもとの健全な状態にするために動き出すようになっているからです。昔から「病は忘れることによって治る」と言っているでしょう。
いいですか。どんな場合があろうとも、自分というものの正体は、目に見えない一つの気体、ぜんぜん感覚できないけれど、とにかく現在の自分を生かしてくれているこの「気」が自分なんだ、とこう思わなきゃいけない。これが信念化すると、生きる力が強くなるんです。