カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

上野千鶴子 『ケアの社会学』

2014-02-14 18:26:45 | 本日の抜粋

     *************

 動物の世界には育児行動はあっても、高齢者介護はない。介護とはすぐれて人間的な行為であり、何が介護かは歴史と社会によって変動する。「孝」という徳があること自体が、介護が自然現象ではなく人為的におこなわれる規範的な行為であることを示す。家族史研究は、母性愛もまた本能ではなく、歴史的な構築物、したがって規範的な制度であることを証明する。もし母性愛が「自然」であり「本能」であるとしたら、その「喪失」や「崩壊」がおきるわけがないからである。

 上野千鶴子 『ケアの社会学』より 太田出版

     *************

いやー、学者って大変だ~。
というのが、まずもっての感想。
まだ、確立されていない世界を述べようとすると、ケアに関する諸分野をこれでもかというぐらいに網羅しなければならないらしい。
でなければ、人を説得できない。
単純で直情型の徳さんとしては、真似しようにも出来ない行為だ。

ここでは、高齢者介護問題がメインに語られている。
副題にあるように、当事者主権の福祉社会の実現を模索している。
その発想は、障害者の当事者主権の主張から導き出されたものだ。

で、現実はどうか?

介護保険が適用されるようになって、障害者の権利が侵害されるようになった。
どんなに障害が重くても、24時間介護が必要不可欠であっても、65歳を過ぎれば強制的に介護保険が適用される。
介護保険による行政のサービスは、障害者へのサービスに比べ、格段に落ちる。
今は移行期で、様々な例外が多少は許されているが、将来の厳格な適用は目に見えている。

半世紀をかけて、ようやく人としての権利を勝ち得た障害者が危機に直面している。
そんな時、障害者が主張すべきは、自分たちが当たり前の人間として獲得してきた権利を、老人にも適用しろ!という運動でなければならない。



本日のおまけ

この上野さんの本に、好意的な批判を浴びせている文章を見つけた。
障害者自立生活運動、かりん燈介助者の会のメンバー、渡邉琢さんのブログだ。

障害者介護保障運動から見た『ケアの社会学』 - 上野千鶴子さんの本について

以下、後半部を。


 *****
しかし、まさに現在進行形の運動の真っただ中にいるぼくの立場からしたら、これだけでは物足りないのである。しかも上野さんの議論には大きな欠点があるようにも思う。


5.『ケアの社会学』の問題点

 『ケアの社会学』の問題点について、いくつか思いあたったことを述べていこう。

 a.まず一つ目、ごく簡単な点から。「当事者主権」を唱えるこの本では、第一次的なニーズの当事者こそ、制度や政策、サービスの最初で最後の判定者だ、と適切に述べられている。だからこそ、『ケアの社会学』においても、徹底して「ケアされる側」の声へと向かって踏み込んでいくべきなのである。けれども、上野さんはそれができなかった。中盤以降で扱われるケアの実践紹介は、すべて提供者側、つまり「ケアする側」への調査である。「ケアされる側」の視点はほぼ完全に欠落する。もちろん高齢者には当事者運動がない、という彼女の嘆きはわかる(障害者の声は、7章で採用されている。)けれども、『ケアの社会学』という立派なタイトルをつける以上、要介護者本人の声に向かって上野さんはもっと進んでいくべきでなかった。少なくとも、当事者団体に勤めるぼくとしては、これでは納得ができない。

 ちなみに述べれば、上野さんが言うように、「当事者」とは、確かに「当事者になる」ものである。けれども、ほっといて誰もが「当事者になる」わけではない。そこには陰に陽に、さまざまな支援や助けがあるのである。人が「当事者になる」に際しては、だれか他者にぐいっと踏み込まれてはじめて動き出すということも往々にしてある。だからこそ、本人の聞こえざる声に向かってへの踏み込みが必要なのだ。そこへの踏み込みの足りない本書はやはり重要なポイントが欠落しているように思う。

b.また、そこに関係して、構成的にといっていいか、論理的にといっていいかわからないが、『ケアの社会学』の中でぼくがもっとも問題と感じるのは、意図してかどうかしらないが、「当事者」概念のすりかえを本書の中で上野さんが行っている部分である。

 ケアの規範理論からいえば、「当事者」はニーズの帰属先としての本人に対してのみ言われる。しかし途中から、ワーカーズコレクティブについて論じるあたりから、上野さんは、協セクターで活動する(主として女性の)経営者や組合員を「当事者」としてたてる。NPO法人等の協セクターでは、「自分たちがほしいサービスを自分たちの手で」供給する、そうした「当事者」性がある。さらにそうしたところで働く彼女たちは、みずから「家族介護の当事者」であったりもする。などと語られる。またワーカーズコレクティブの調査研究のやり方は女性自身による「当事者研究」であるとも言われる。上野さんは、こうした女性たちの「当事者性」を重視して、そこから高齢者介護の先進事例について語っている。

 悲しいかな、ここで上野さんは「当事者主権」の原則を外してしまっている。そしてケアの与え手側を「当事者」と語る過ちをおかしてしまっている。

 上野さんはそのことをわかっているだろうが、慣れていない読者たちはそこにころっとだまされるだろう。

 あとにも振り返って述べるが、ここには、女性解放の立場と障害者当事者運動の立場の両方の立場に立とうとする彼女の中での無理が現れているのだと思う。女性自身が社会を切り開いていくことに期待するフェミニストとしての立場がここでは勝ってしまっていて、当事者原則からちょっと外れてしまっているのかもしれない。

 c.また、彼女が思い入れしているというワーカーズコレクティブにおけるケアの内容が、おそらく貧弱であろう点も、気になるところである。この本の中で何度か言われているが、障害者介護保障運動は在宅独居による24時間介護を実現しながら運動を進めてきた。そこの中心には常に、重度障害の当事者がいた。しかし、どう見ても、ワーカーズコレクティブの実践では、介護程度の軽い高齢者の要望にしか応えられていない。ワーカーズコレクティブで提供されるサービスは、相対的に豊かな層の女性たちゆとりや生きがいの延長としての有償ボランティアでしかない、と言われている。そして「「自分で働き方を選べる」ワーカーズコレクティブは、その結果として利用の集中する朝や夕方の時間帯や休日・夜間のワークの引き受けてがいないという人手不足に悩まされる結果となった」そうである。与え手の都合優先で考えていたら、受け手は常に不利をこうむらざるをえない。自分の働きたいときにだけ働く、そんな気分で重度障害者の生活が支えられるわけがない。深夜の介助はだれが行うのか。常に必要なときにそばにいてくれるのか。その介護がなければ重度障害者の自立生活など成り立つわけがないのに、今日はごめん、その時間はムリ、夜はムリ、で重度障害者の生活が支えられるだろうか。与え手主導のサービス提供組織では、重度障害者はおいてきぼりにされる、そうしたことはすでに障害当事者運動が何十年も前から主張してきたことだ。ワーカーズコレクティブにおける、そしてまた介護保険における、介護保障の水準は、障害者福祉制度とは雲泥の差がある。いくら女性主体のワーカーズコレクティブ(高齢社会をよくする女性の会も含めて)に期待しようが、おそらく介護保障の水準が(少なくとも深さに関して)上がることはない。これは歴史が証明している。介護保障というのは、ケアされる当事者が中心となった運動によってはじめて深まっていくのである。(なお、あまり知らない人のために。障害者福祉では、障害者運動が勝ち取った成果によってホームヘルプが一日24時間利用できるが、介護保険ではホームヘルプの利用時間は上限で一日あたりせいぜい3、4時間。提供者側からの運動によっては、これが5、6時間になったとしても、24時間になることはありえないだろう。入所施設を除いては。)

 d.また、「協セクター」に期待を寄せる上野さんであるが、その「協セクター」は救貧や弱者救済に責任をもつ必要がない、と述べている点は気になるところである。「ワーカーズコレクティブの有償サービスは、困っているが利用料金を負担する経済能力がない人たちには手が届かない。生協のような有償の介護事業体にとっては「公益性」といってもあくまで会員間の互助活動にとどまっており、救貧や弱者救済に責任がもてるわけでもないし、持つ必要があるともいえない。むしろこうした弱者救済こそ真の意味の公的福祉、すなわち官セクターの役割であり、協セクターとは役割分担すべきであろう。」(p300)

 ここには若干の但し書きは必要であろう。上野さん自身は、ケアの市場化には反対で、ケア費用については国家化、ケア労働については協セクターへの分配が望ましいとする立場であり、つまり事業としては協セクターにまかせるが、費用面は公的責任において保障するのがよい、と考えている。それは現在の自立生活運動の主流の主張でもある。だから官と協の上記のような役割分担で何を指しているのか判然としない。まさか、生活保護水準の人たちには官セクターによる最低限の劣悪サービスでよい、と考えているわけでもないだろうが。

 それはそれとして、基本発想として協セクターというのが、お上の力を頼らず、自分たちで互助的に支え合いながら事業をしていこうという側面があることは確かである。

 しかし、障害者自立生活運動の歴史に目を転じれば、こうした市民事業体が、重度障害者の生活を支えることができなかったことはすでに歴史が証明している。

自立生活運動でも、初期のヒューマンケア協会に代表されるように住民参加型の有償介助派遣事業の試みはあった。しかしその弱点は早急に認識された。多くの障害者は購買力がないし、重度障害者の介護保障はその発想からは不十分だからである。自費による有償サービスで生きていけるのは、介護が一日あたり数時間程度ですむ障害者たちまでであり、重度障害者はそこからはこぼれる。自立生活運動においてその弱点を補ったのは、それ以前からあった公的介護保障要求運動との連携である。そして、公的介護保障要求運動は徹底して公的責任を追及した。行政に、重度障害者の24時間介護を保障しろ、と迫ったのである。この運動こそ、現在成立している障害者の24時間介護制度の基礎をつくったものであるが、そのことはあまりに認識されていない。重度障害者の24時間介護制度は、行政の公的責任を強く問う中で成立したのである。

上野さんのように、協セクターの可能性に期待して、「弱者救済こそ真の意味での公的福祉の役割」で、協セクターと官セクターは役割分担したらよい、なんて甘いことを言っていたら、公的福祉はどんどん撤退するに決まっている。公的福祉が撤退した後でも、経済力のある人たちは、その購買力を武器に、介助・介護を利用できるかもしれない。しかし、それでいいのか。(なお、障害者の介護保障運動の歴史については、拙著『介助者たちは、どう生きていくのか』(渡邉琢、生活書院)4章に詳しく書いているので参照にされたい。)

e.また、経済力というところで、どうも上野さんには、セレブ的発想がある。たとえば、ヘルパーの指名制度を介護保険に導入できないものか、真剣に考えているようである。「利用者から人気の高いヘルパーに指名が集中すれば、指名料をとって報酬を増額すればよい」そうである。別にセレブ的発想が悪いというわけではない。けれども、これでは貧乏人の反感を買うのは必至だ。金持ちは金を払ってよいケアを受けられる。貧乏人はだれがきても文句いわずがまんしなさい、と言っているようなものだ。そういう嗜好はそれはそれで当然と思うが、それならば『ケアの社会学』は『(セレブの)ケアの社会学』という但し書きが必要ではないだろうか。(そういえば、上野さんは『おひとりさまの老後』という本では、金のある高齢シングル女性のサクセスストーリーのみを取り上げた、と言っている。(現代思想2011・12月臨時増刊号))

d.そして最後に、上野さんは、なぜ「ケアワークは安いのか」という問題設定をするが、彼女にはどうも働く人たちへのまなざしがあまりないような気がする。彼女の視点は、まず基本は経営者に向かい、そしてサービス利用者として障害者にも向かう。けれども、もちろん働く人への言及はあるけれども、どうもその人たちへのまなざしがない。これはぼくが介助者であるゆえの感覚なのだろうか。ワーカーズコレクティブの事例にしても、高経済階層の女性たちが「活動」の主力であり、「労働」して稼がねばならない低経済階層の女性たちはあまり登場しない。指名制の話しにしたって、顔立ちがよくスキルの高い人たちは高い報酬をもらっていくであろうが、うだつの上がらない人たちはそこで格差をつけられる。すべて一律がいいと言っているわけではないが、ヘルパーの選別に対して多くのヘルパーの心理が動揺することは、彼女はご存じなのだろうか。彼女の視点は、基本的にケアワーカーを使用する側にあるように思う。経営者としてケアワーカーを使用する視点。利用者としてケアワーカーを使用する視点。そして彼女には自らがケアワーカーになるという視点があまりないのかもしれない。「わたしたちの社会の女性のケア労働は、もっと条件の悪い他の女性たち(外国人、移民、高齢、低学歴、非熟練等々)の負担において「解決」される」(p451)。これは彼女自身の言葉であるが、彼女はこの課題に対しては十分な解決策を示していない。そして、ぼくが思うに、彼女の『ケアの社会学』からはこの課題は等閑視されざるをえない。上野さんの『ケアの社会学』は『ケアワーカー使用者の社会学』と言い換えられうる側面もあるように思う。

6.未完の『ケアの社会学』

 前半で述べたように、この本は、大半の世の「常識人」にとっては革新的内容を含んでいる。彼女の家族破壊と女性解放の戦略は、やはり『家父長制と資本制』以来一貫している。そして、育児と介助、介護をひっくるめたケアという人間の生命に関わる再生産様式に対する彼女独特のまなざしも一貫している。生命の育みとその死の看取りへの深い関心が、戦闘的な彼女の思想の根っこにあるのだろう。それでも、本の構成、内容、論理上、ぼくが感じたところでは以上のような問題点があった。

「労働者性」の軽視と感じる部分に関しては、ここではこれ以上論究できない。むしろ彼女はその部分は論じずに突っ走っていけばいいように思う。それが時代を切り開いてきた先駆者の役割なのだろう。

もう一つ、女性の立場と障害者の立場との間の溝について。本の問題点を論じる中で、障害当事者の視点に立つよりも、フェミニストとしての立場が勝ってしまっているのではないか、だから当事者主権の原則を外しているように見える、と述べた。残念ながら今回のこの本では、その二つの立場の間の溝については言及されていない。彼女もそこらへんを内省することは嫌がるかもしれない。

しかし、障害者運動の嚆矢が「母よ!殺すな」であったことは強調されていいように思う(『母よ!殺すな』(横塚晃一、生活書院)参照のこと。70年代、福祉政策の欠如(=家族への押し付け)の中で母親による障害児殺しが多発したとき、母への同情は世間から多数あり、減刑嘆願運動まで起きたが、殺された障害児への同情の声は一切見られなかったという。それに脳性まひ者たちが抗議したことが障害者自立生活運動のはじまりとされる)。もちろんなぜ「父よ、殺すな!」でないのか、あるいは「母に、殺させるな!」でないのか、といった問いを考えてみるのは有意義である。けれども、障害者たちは、女としての母との格闘から、自分の道を切り開いてきた。自立生活運動は常に、健常者社会、健常者文明一般を批判すると同時に、目前に立ちはだかった「母なるもの」と対決してきた。母はしばしば障害者にとって直接の抑圧者であった。「当事者主権」を本当に語るならば、そこら辺まで踏み込んで論じていってほしい。

上野さんの『ケアの社会学』の内容が深まるには、この辺の格闘が書き込まれていかねばならない。それ抜きには、当事者主権の形式的追跡にとどまるであろうし、70年代と同じ過ち―ケアされる側の声は無視され、ケアする側への同情に終始する―が繰り返されないとも限らないのだ。「当事者主権」の論理も、「利用者本位」などと同様、現場では簡単にすり替えられるのだ。

実は『家父長制と資本制』において、すでにそこら辺の格闘に対する示唆がある。その本の6章に「子供の叛乱」と題する節がある。以下、そこから引用するが、以下の引用で、「子供」を「障害者」ないし「要介護者」、「ケアされる者」に置き換えてほしい。ここに見られる抑圧の問題と取り組んでいくことなしには、『ケアの社会学』は完成していかないであろう。

「子供の抑圧と叛乱は、フェミニズムとつながる重要な課題である。女性と子供は、家父長制の共通の被害者であるだけでなく、家父長制下で代理戦争を行なう、直接の加害―被害当事者にも転化しうるからである。家父長制の抑圧の、もう一つの当事者である子供の問題と、それに対して女性が抑圧者になりうる可能性への考察を欠いては、フェミニズムの家父長制理解は一面的なものになるだろう。」(p133、岩波現代文庫版より)

『ケアの社会学』はまだまだ未完成である。この本の読者は決してここで甘んじていてはいけないのだ。この本に書かれている内容に対して、別の視点、すなわち本来の「当事者」の視点で書かれたものが追加されることが切に待望される。そしてそれは掘り起こされていかなければならない。ケアの課題に対しては、もっと重層的な立場からのやりとり、対話が必要である。その際常に、自分がどこの立場からものを語っているのか、問われざるをえないし、自問せざるをえないだろう。この「大著」をこえて、ケアにまつわる議論を進めてゆくために。日々葛藤の中にありつつ、障害者の地域生活を支える介助者、支援者として生きている者として精いっぱい書かせてもらった。
 *****


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都会の中のローカル線

2014-02-12 20:57:35 | 本日のしりきれとんぼ
小平市に引越ししてから、西武新宿線の花小金井駅を利用するようになった。
自宅からの距離という事であれば、中央線の武蔵小金井を利用しても良さそうだが、年寄りの徳さんとしては、がぜん西武線贔屓。
味をしめてしまった。

吊り革にぶら下がる事が出来ればラッキー。
網棚にカバンを乗せる事が出来れば至上の喜び。
これは、ラッシュ時から2時間程度ずれた、贅沢な、自営業故のフレックスタイムでの中央線の状態である。

ラッシュ時をやり過ごした西武線は違う。
シルバーシート辺りをうろつけば、着席率90%位保障される。
どこかのんびり、のどかなローカル線と言った雰囲気から抜け切らないのだ。
年寄り向けなのだ。
経営陣はそこら辺をヤキモキしているんだろうが、、、、。

その花小金井駅の近くに画像の喫茶店がある。
かなり昔の家屋をそのまま利用している。
その独特な、アンティックな風情が売りである。
嫌味なほどに自己主張が強い。

でも、その自己主張が敗北したもようである。
近々廃業し、取り壊しの後には、かなり広い敷地を利用してマンションが立つ予定、との広告が片隅に貼ってあった。

新宿の施療室のある町も、生活関連の店は飲食店を除いて軒並み廃業の憂き目に会っている。
最近では、界隈最後の文化の砦、古本屋さんが店を閉じるという。

もう最近の徳さんは、南無阿弥陀仏という言葉しか口から出ない。




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東京新聞、ふくしま作業員日誌

2014-02-10 18:42:17 | 本日のこういうのが好きだ
「こちら特捜部」など以前からかなり踏み込んだ記事を書いて来た東京新聞。
3・11震災・原発事故以来、他の新聞社には見られない態度を明確にした報道を一貫して貫いている。

その中に、不定期で地味に続けられている『ふくしま作業員日誌』という小さなコーナーがある。
片隅に置かれているのが、読者としては申し訳ない気がしてくる代物だ。

毒の効いた奴がまず目に留まった。

<皮肉な お・も・て・む・き>
 福島第一をよく知る人は、東京五輪招致の最終プレゼンテーションで話題になった「おもてなし」や「状況はコントロールされている」という言葉を、「おもてむき(表向き)」「情報はコントロールされている」と言い換えている。

 それがすっかり仮設住宅にも定着しちゃって、じいちゃんばあちゃんに「これは表向きの話?」とか「相変わらず情報はコントロールされているの」と言われたりする。

「いつまで汚染水漏れしてるんだい」と聞かれ、わからないよ答えたら「俺のオムツを貸そうか」とも・・・。


<まだ安全じゃない> 
楢葉町の警戒区域解除の後、作業員も移動中の車内で、防護服を着ないように言われた。「住民が怖がるから」と説明された。本当の解除はまだまだ先。それなのに、安全より解除に向けた体裁ばかりととのえられている。


<母を失った仔牛に涙>
「福島第一原発の正面から500Mくらいのところで、交通事故で死んだ母牛に13日から仔牛がずっと付き添っていた。
 母牛がひかれてどうしたらよいのか分らないみたい状態みたいで、道路にぺッタリ座っていた。
 母牛にブルーシートをかけられた後も、そばを離れなかった。

 泣けた。離れて暮らす息子のことを思い出して胸が熱くなった。

 一緒に被曝してきたという思いもある。保護されて本当によかった。


<みんな無理している>
 でも、みんなに迷惑を掛けたくないと、つい頑張ってしまう。意識がもうろうとしたり、手足がしびれてきても、あと少しで終わると自分に言い聞かせて、作業を続けてしまうこともある。
 給料が減るとか、次の仕事をもらえないのでは、という不安もある。具合が悪い人を出すと、会社全体で仕事を干されてしまうのではないかという意識も働く。
 雇用が安定したら、みんな無理しなくなるのに。


<危険はちゃんと教えて>
必死に頑張ってタンクを設置する人たちの姿を見てきたから、汚染水漏れと聞くと悲しくなる。日本の技術力でも漏れないようにするのは難しいだろうか。

漏れがあったのは多くの作業員が通る五差路の近く。でも現場の僕らには情報が伝わってこない。300トンというのも、レベル3になったのも、ネットで知った。情報がこないのは慣れっこだけど、体を張って働く作業員に危険は教えてほしい。


<廃炉まで働きたいけど>
作業員が感謝されたのは初めだけ、結局、使い捨てになっている。招来病気になっても、誰も何もしてくれないだろうな。


大きな選挙の翌日、徳さんは不機嫌になるのを定番としている。
今日のブログは、ただただ自分の精神の安定を保つための点滴作業である。
ゴメン!


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復活の朝、道はカチカチのジョボボボボ。

2014-02-09 18:14:02 | 本日の無惨
なりをひそめたインフルエンザが、まだ人さまにうつす可能性があるとされる日数に一日加算しての休業明けの今朝。
体調はかなり良い。
でも、状況はかなり悪い。

東京では珍しい二日続けての降雪。
多摩地方では40センチ近く積もったようだ。

今日は、まずは都知事選。
品の悪い破廉恥男と品の良い破廉恥男。
どちらも嫌だと、徳さんはむずかっている。
気の進まぬまま投票所へ。
自宅から投票所までかなりの距離がある。
雪の影響で道はカチカチに踏み固められているか、タイヤでかき回されてグジョグジョか。
自転車で行くのは危険なので徒歩で。
病み上がりの運動には適度、適度と呟きやきながら。

いったん自宅に帰り、いざ初出勤。
やはり自転車は避けて、バスで武蔵小金井駅まで出ることにした。
ところが、バス停には「大雪のため、運休」との一枚の紙がビニールテープで貼り付けてある。
素人が考えて、山道を通るでもなし、この位の積雪でプロが運転する公共バスではありえない。
で、ビラに書いてあるバス会社に確認の携帯を入れてみる。
すると「この電話は使われてません」だって、、、。
いぶかしく思ってバス停の標識本体を調べると電話番号の数字が一つ欠けている。
改めて電話すると、一向に繋がらない。
ご丁寧にホームページを示してあるので、覗いてみると、西部バスは運休とある。

諦めて駅まで歩くことにする。
20分かけて小金井街道まで出る。
道のりの半分のところだ。
すると、バスが走っているではないか。
西部バスも走っている。
何なんだ!
道のりの半分は助かった徳さんだが、裏道を通っていたら駅まで歩く羽目になっていたところだ。

来る大災害に備えるべく、防災が叫ばれているが、現実は今回程度の積雪でここまでシッチャカメッチャカになってしまうと心したほうがいい。



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重松清 『ナイフ』

2014-02-08 18:43:18 | 本日の抜粋

     *************

 もしも誰か一人だけ殺さなければならないのなら、サエコは選ばない。恨みはある、憎しみもある、それはもちろん。でも、あのコは一番じゃない。殺したいほど憎んでいる相手がいるとしたら、それはきっと、匿名の手紙を担任の先生に送ったコになるだろう。許さない。あたしは、そのコをぜったいに許さない。

 重松清 『ナイフ』所収「ワニとハブとひょうたん池で」より 新潮文庫

     *************

先日、読んだ川上未映子の『へヴン』も、いじめをテーマにした小説だった。
いくらでも深読みが出来る内容だった。
哲学書を小説として書き上げるとこんな風にもなりますよ、なんて調子だ。
人間にとって悪とは何か?宗教とは何か?他者とは何か?その宗教は果たして救いとなるのか?神は死んでいるのではないか?
いじめの生々しさはくどいばかりに描写されているが、いわゆるいじめ問題として取り扱った物ではない。
実際にはないだろう「いじめ」を創造し、象徴として扱われている。

この短編集『ナイフ』に出てくるいじめは、何処にでもあるいじめだ。
それを、いじめられる側、いじめる側から、親の立場から、教師の立場から一篇一遍の重松清らしい小説に仕上げている。
重松らしいとは、解決策はないんだけど、輝く光はないんだけど、ほのかな明かりで登場人物の心の襞を包み込んでいる、という感じだ。

抜粋部は、いじめをゲームとみなして、必死に明るく強く耐えている主人公の心の描写のひとつだ。
思春期、あてがわれた共同体の中で、その稚拙な共同体の価値観が、周りからの干渉をどれほど嫌がるかを示したものだ。
あてがわれた共同体とは逃れられない共同体である。
そう簡単に、教師や親元に駆け込むわけにはいかない、、、。

そうは言っても、充分にじじいである徳さんには現代のいじめの構造はよく判らない。

この『ナイフ』に収められている「エビスくん」には唯一親近感を抱いた。
病弱な妹を持った主人公が、転校してきた体格のいいエビスくんに日常的にいじめられるようになる。
妹には、彼の名前から神様のような奴だといい、会わせる約束をし、紆余曲折を経て最後に約束を果たす、というものだ。
主人公はいじめられながらも、エビスくんの事は最後まで嫌うことなく接し続ける。
いや、どこか好きでさえある、、、。

どうして、こんな事が成り立つんだろう?

そう、エビスくんのいじめは過酷なものではあったが、昔のいじめだったのだ。





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村田喜代子 『お化けだぞう』

2014-02-07 19:46:05 | 本日の抜粋

     *************

 馬方が藤兵衛の馬を励ます。
「トキよい、ええ子ずら。気張って行かズ。来年はこの道もあがりになるずら」
「あがりとはなんです?」
藤兵衛が馬の上から尋ねた。
「へい。おいとまが出るということでネー。箱根で三年働かせた馬は眼が潰れるずら。その前に暇をやって村に帰(きや)ーしてやっだなァ」
「眼が潰れる?」
「人間でも苦しい山坂を、馬は荷や人を負うて歩(ばし)るずらよ。三年通うと眼ェ失い、五年通うと命を縮める。馬も苦しいときは涙ァ流すまいか」
 藤兵衛の馬はメスのようである。ひとかかえもある大きな長い首が黙々とうなだれて、悪路に足場を刻むようにポカポカと登って行く。馬の背が汗で水を含んだ苔のように光った。苦役に従う獣のひたむきな従順さが、じんと彼の胸を刺した。

 村田喜代子 『お化けだぞう』より 潮出版社

     *************

江戸の爛熟期、隠居間近の本草学に入れあげてる豪商が、奇妙なうわさの草木をもとめて諸国を旅する冒険譚。
同行する、お取り潰しにあった武家出身の後妻が影の主人公で、そのおかみさんが、一番のお化けだったという話。
お化けには、ほとんど悪い意味は付されてない。
後半になればなるほど面白さが増して来る、ってとこが村田喜代子のすごさ。

抜粋部は徳さんがこの本から勝手に離れて、福島原発で悪条件の中で働いてる労働者を思い浮かべてしまった部分。
馬のトキより待遇が悪いんじゃなかろうか?
7次請けまであるという雇用形態とその間のピンハネ問題はその後どうなっているんだろう?
年間被爆量を超えた労働者にはどのような仕事や生活が保障されているのだろうか?
原発事故当時、混乱をしまくった政府並びに東電責任者は、その後、彼らの抱えてる問題に取り組んでいるのだろうか?
慰問に行っているのだろうか?
自己弁解は聞いたことはあるが、、、。


さて、さしあったって、当面の徳さんにとってのお化けはホンコンA型インフルエンザ。
変則的な台風というか、コースを逸脱しているというか。
ともかく変わった奴だった。
熱は上がったり下がったりを飽きずに繰り返す。
咳は喉からではなく、胸の芯から、何の前触れなしに襲ってくる。
そして、暴れるだけ暴れて何事もなかったかのように去って行った。

嵐の後の感想。
発熱してる時って、何も出来ん。
そして何も出来んことが苦じゃない。
でも、眠る事だけは延々と出来る。


現在連続休業中、インフルエンザを頂きやんした

2014-02-06 17:58:30 | 本日の無惨
あちきはただ今トホホの休業中の身でありんす。

しかし、流れとしてはよく理解できるもんでありんす。

始まりはあちきの傲慢。

己の能力を過信したが故のおふくろ様の車椅子からの転倒事故。
体力が弱ったところで、通っているデイケアでの入浴後の低血圧による意識喪失。
この二つは原因が判れば対処可能。

次に襲って来たのは、意味不明の食事拒否。
入れ歯を口に入れることも、嫌そうに拒否する。
腕を支えながら立たせようとしても、重心が取れないらしく、まともに立てない。
おボケが強いのでおふくろ様は具体的な訴えを出来ない。
これは尋常じゃないと今年3度目の病院へ。
白血球数が2万と炎症反応が尋常じゃない。
急遽、入院生活へ。
翌日、判明したのは腎盂炎。
オシメ生活なので、いくらでもありうる話だ。
しかし、これからの生活にとって何を改善すればよいのか、困難が待ち構えている。

おふくろの入院生活に付き添ってて、感心したのが、というか何も知らなかったのだが、老人は水さえも飲み難いことだ。
そのために、画像のツルリンという薬剤?が使われる。
水にとろみを付けるのだ。
片栗粉みたいな物なのか、、、。
ちょっと、予想だにしなかった老人の生理だった。

これからしばらく、老人ケアのノウハウを学ばなきゃ、と思っているうちに、あちきがインフルエンザにやられた。
インフルエンザ流行時の病院現場に何度も出入りした結果と思わざるを得ないが、これはしょうがない。

現在、おふくろの見舞い厳禁の身である。
でも、この病院の徹底振りには感謝しなければ、、、、。







石牟礼道子 『蘇生した魂をのせて』

2014-02-03 19:03:16 | 本日の抜粋
まだ水俣病が世間には知られていない時期、地元の漁師たちはそこに舟をいっぱい繋いだ。
船底に付くフジツボや牡殻などを取り除くのは漁師にとって厄介な仕事だ。
でも、そこに舟を繋げば、貝もフナ虫も寄り付かなくなり、船底はきれいになり、舟は軽くなる。
その場所は、水俣百排水溝付近。
チッソ工場の排水溝で、水銀を一番多く流されたところで、水俣病発症の地といってもいい。

現在は細い水路を残して埋め立てられ、エコパークになっている。
地元民の多くは、その地の有効利用を望んでいるが、水俣病患者の多くは違う。



願うのは鎮魂。
水俣病に罹った人たちだけの鎮魂ではない。
水俣病闘争で敵対した人々の魂も救いたいと願っている。
それ以上に、人間より早く水銀に反応し、悶え死んで行った海辺の動植物たちの魂を。

そして、今回の埋め立てによって海浜作用を失った海からの恩恵を断ち切られ、生き埋めになった生き物の。
そして、彼らの心の支えとなっていた美しい風景の。

 ************

「私たちがこれだけ苦しんだんだから、もうよか。この苦しみは誰にもさせたくない。とても罪深いことを私に行った人には、まだその人たちにはこだわってるけど、許したいとは思う。私の修行が足らずにまだ許せんけど。まだ私がだめ」
 
「これだけの苦しみを私たちが全部引き受けるけん。皆さんの苦しみ、人間の苦しみ、全部私たちがひきうけますけん、それで許します」

 石牟礼道子 『蘇生した魂をのせて』より 河出書房新社
 
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荻原規子 『RDGレッドデータガール はじめてのお使い』

2014-02-02 17:47:48 | 本日の抜粋

     **************

 見られることが怖いのは、傷つけられるのが怖いからだ。見られることが恥ずかしいのは、自分で自分を否定しているからなのだ。このような自分がここにいることを、心の底から認めていなかった。これほど冴えない鈴原泉水子ではなく、他のものになりたかったからだ。

 荻原規子 『RDGレッドデータガール はじめてのお使い』より 角川文庫

     **************

柄にもない物を読んでしまった。
少年少女向けのファンタジー小説だ。
しかし、66歳のじじいが読んでも面白かった。
全6巻とあるので、きっと近日中に読んでしまうんだろうな。

何が面白いんだろうか?

一つは、精神的にも肉体的なひ弱な少女が、本人の意思に関係なく襲って来る試練に立ち向かうことによって成長していく、その過程が面白い。

そして、この小説自体の背景設定が興味深い。
修験道、今はめったにお目にかかれない山伏の世界を扱っている。

 *****
「修験道はね、山にある自然そのものを信仰する道なんだ。行者は山中に分け入って、他界におもむき、山の霊力を身につけて里に下る。山の巨大な岩根がたたえている力に感応する力は、人々が神や仏をそのような姿で見いだす以前からあった、古い古い能力だったんだよ。だから、修験の行者は、本来ならば仏教徒でも神道家でもない。教義を習合して表現してはいるが、在り方は太古のそのままで、今ある宗教とは厳密に一致しないんだ」
 *****

だってさ。
明治政府によって根絶やしにされた修験道の怨念を背景とした、少年少女向け小説。
って思って読めば、面白くないはずがない。


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猫の異能

2014-02-01 19:55:35 | 本日のしりきれとんぼ


母の入院以来、我家は何となく浮き足立っている。
そんな気配を察知してか、セロ&ニーニャの行動にも変化が現れてる。

留守にされてる時間が長いせいなのか、やたらと甘えてくる。

ニーニャ。
普段は徳さんに余り関心を持ってくれない。
女性軍の電気毛布と餌やりにあっさりと徳さんへの思慕を捨てた牝猫だ。
そのニーニャが、毎夜の縄張り確認のための巡回時、いつもは一回りして部屋を出て行くのだが、ここ最近は徳さんの部屋を簡単に出て行くことをためらってる風情なのだ。
そしてニャーと枕元で徳さんに合図を送る。
午前3時頃の話だ。
寝ぼけまなこで掛け布団を持ち上げると、なんと、日頃徳さんに薄情な二ーニャが入って来て、喉をゴロゴロさせながら添い寝するではないか!
飼い始めて二年目、初めての出来事である。

セロ。
こちらはニーニャに比べ、常日頃の親交が深い。
でも変化は如実だ。
足元へのまつわり方が尋常でない。
徳さんの歩行を阻害するまでに至る。
添い寝の時間も大幅にアップして3時間に及ぶ。

そんな自分達の振る舞いが家族にとって充分な癒しとなっている事を見越しているようなのが、ちと悔しい。
普段から、もっと、愛をおくれよー!




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