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動物の世界には育児行動はあっても、高齢者介護はない。介護とはすぐれて人間的な行為であり、何が介護かは歴史と社会によって変動する。「孝」という徳があること自体が、介護が自然現象ではなく人為的におこなわれる規範的な行為であることを示す。家族史研究は、母性愛もまた本能ではなく、歴史的な構築物、したがって規範的な制度であることを証明する。もし母性愛が「自然」であり「本能」であるとしたら、その「喪失」や「崩壊」がおきるわけがないからである。
上野千鶴子 『ケアの社会学』より 太田出版
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いやー、学者って大変だ~。
というのが、まずもっての感想。
まだ、確立されていない世界を述べようとすると、ケアに関する諸分野をこれでもかというぐらいに網羅しなければならないらしい。
でなければ、人を説得できない。
単純で直情型の徳さんとしては、真似しようにも出来ない行為だ。
ここでは、高齢者介護問題がメインに語られている。
副題にあるように、当事者主権の福祉社会の実現を模索している。
その発想は、障害者の当事者主権の主張から導き出されたものだ。
で、現実はどうか?
介護保険が適用されるようになって、障害者の権利が侵害されるようになった。
どんなに障害が重くても、24時間介護が必要不可欠であっても、65歳を過ぎれば強制的に介護保険が適用される。
介護保険による行政のサービスは、障害者へのサービスに比べ、格段に落ちる。
今は移行期で、様々な例外が多少は許されているが、将来の厳格な適用は目に見えている。
半世紀をかけて、ようやく人としての権利を勝ち得た障害者が危機に直面している。
そんな時、障害者が主張すべきは、自分たちが当たり前の人間として獲得してきた権利を、老人にも適用しろ!という運動でなければならない。
本日のおまけ
この上野さんの本に、好意的な批判を浴びせている文章を見つけた。
障害者自立生活運動、かりん燈介助者の会のメンバー、渡邉琢さんのブログだ。
障害者介護保障運動から見た『ケアの社会学』 - 上野千鶴子さんの本について
以下、後半部を。
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しかし、まさに現在進行形の運動の真っただ中にいるぼくの立場からしたら、これだけでは物足りないのである。しかも上野さんの議論には大きな欠点があるようにも思う。
5.『ケアの社会学』の問題点
『ケアの社会学』の問題点について、いくつか思いあたったことを述べていこう。
a.まず一つ目、ごく簡単な点から。「当事者主権」を唱えるこの本では、第一次的なニーズの当事者こそ、制度や政策、サービスの最初で最後の判定者だ、と適切に述べられている。だからこそ、『ケアの社会学』においても、徹底して「ケアされる側」の声へと向かって踏み込んでいくべきなのである。けれども、上野さんはそれができなかった。中盤以降で扱われるケアの実践紹介は、すべて提供者側、つまり「ケアする側」への調査である。「ケアされる側」の視点はほぼ完全に欠落する。もちろん高齢者には当事者運動がない、という彼女の嘆きはわかる(障害者の声は、7章で採用されている。)けれども、『ケアの社会学』という立派なタイトルをつける以上、要介護者本人の声に向かって上野さんはもっと進んでいくべきでなかった。少なくとも、当事者団体に勤めるぼくとしては、これでは納得ができない。
ちなみに述べれば、上野さんが言うように、「当事者」とは、確かに「当事者になる」ものである。けれども、ほっといて誰もが「当事者になる」わけではない。そこには陰に陽に、さまざまな支援や助けがあるのである。人が「当事者になる」に際しては、だれか他者にぐいっと踏み込まれてはじめて動き出すということも往々にしてある。だからこそ、本人の聞こえざる声に向かってへの踏み込みが必要なのだ。そこへの踏み込みの足りない本書はやはり重要なポイントが欠落しているように思う。
b.また、そこに関係して、構成的にといっていいか、論理的にといっていいかわからないが、『ケアの社会学』の中でぼくがもっとも問題と感じるのは、意図してかどうかしらないが、「当事者」概念のすりかえを本書の中で上野さんが行っている部分である。
ケアの規範理論からいえば、「当事者」はニーズの帰属先としての本人に対してのみ言われる。しかし途中から、ワーカーズコレクティブについて論じるあたりから、上野さんは、協セクターで活動する(主として女性の)経営者や組合員を「当事者」としてたてる。NPO法人等の協セクターでは、「自分たちがほしいサービスを自分たちの手で」供給する、そうした「当事者」性がある。さらにそうしたところで働く彼女たちは、みずから「家族介護の当事者」であったりもする。などと語られる。またワーカーズコレクティブの調査研究のやり方は女性自身による「当事者研究」であるとも言われる。上野さんは、こうした女性たちの「当事者性」を重視して、そこから高齢者介護の先進事例について語っている。
悲しいかな、ここで上野さんは「当事者主権」の原則を外してしまっている。そしてケアの与え手側を「当事者」と語る過ちをおかしてしまっている。
上野さんはそのことをわかっているだろうが、慣れていない読者たちはそこにころっとだまされるだろう。
あとにも振り返って述べるが、ここには、女性解放の立場と障害者当事者運動の立場の両方の立場に立とうとする彼女の中での無理が現れているのだと思う。女性自身が社会を切り開いていくことに期待するフェミニストとしての立場がここでは勝ってしまっていて、当事者原則からちょっと外れてしまっているのかもしれない。
c.また、彼女が思い入れしているというワーカーズコレクティブにおけるケアの内容が、おそらく貧弱であろう点も、気になるところである。この本の中で何度か言われているが、障害者介護保障運動は在宅独居による24時間介護を実現しながら運動を進めてきた。そこの中心には常に、重度障害の当事者がいた。しかし、どう見ても、ワーカーズコレクティブの実践では、介護程度の軽い高齢者の要望にしか応えられていない。ワーカーズコレクティブで提供されるサービスは、相対的に豊かな層の女性たちゆとりや生きがいの延長としての有償ボランティアでしかない、と言われている。そして「「自分で働き方を選べる」ワーカーズコレクティブは、その結果として利用の集中する朝や夕方の時間帯や休日・夜間のワークの引き受けてがいないという人手不足に悩まされる結果となった」そうである。与え手の都合優先で考えていたら、受け手は常に不利をこうむらざるをえない。自分の働きたいときにだけ働く、そんな気分で重度障害者の生活が支えられるわけがない。深夜の介助はだれが行うのか。常に必要なときにそばにいてくれるのか。その介護がなければ重度障害者の自立生活など成り立つわけがないのに、今日はごめん、その時間はムリ、夜はムリ、で重度障害者の生活が支えられるだろうか。与え手主導のサービス提供組織では、重度障害者はおいてきぼりにされる、そうしたことはすでに障害当事者運動が何十年も前から主張してきたことだ。ワーカーズコレクティブにおける、そしてまた介護保険における、介護保障の水準は、障害者福祉制度とは雲泥の差がある。いくら女性主体のワーカーズコレクティブ(高齢社会をよくする女性の会も含めて)に期待しようが、おそらく介護保障の水準が(少なくとも深さに関して)上がることはない。これは歴史が証明している。介護保障というのは、ケアされる当事者が中心となった運動によってはじめて深まっていくのである。(なお、あまり知らない人のために。障害者福祉では、障害者運動が勝ち取った成果によってホームヘルプが一日24時間利用できるが、介護保険ではホームヘルプの利用時間は上限で一日あたりせいぜい3、4時間。提供者側からの運動によっては、これが5、6時間になったとしても、24時間になることはありえないだろう。入所施設を除いては。)
d.また、「協セクター」に期待を寄せる上野さんであるが、その「協セクター」は救貧や弱者救済に責任をもつ必要がない、と述べている点は気になるところである。「ワーカーズコレクティブの有償サービスは、困っているが利用料金を負担する経済能力がない人たちには手が届かない。生協のような有償の介護事業体にとっては「公益性」といってもあくまで会員間の互助活動にとどまっており、救貧や弱者救済に責任がもてるわけでもないし、持つ必要があるともいえない。むしろこうした弱者救済こそ真の意味の公的福祉、すなわち官セクターの役割であり、協セクターとは役割分担すべきであろう。」(p300)
ここには若干の但し書きは必要であろう。上野さん自身は、ケアの市場化には反対で、ケア費用については国家化、ケア労働については協セクターへの分配が望ましいとする立場であり、つまり事業としては協セクターにまかせるが、費用面は公的責任において保障するのがよい、と考えている。それは現在の自立生活運動の主流の主張でもある。だから官と協の上記のような役割分担で何を指しているのか判然としない。まさか、生活保護水準の人たちには官セクターによる最低限の劣悪サービスでよい、と考えているわけでもないだろうが。
それはそれとして、基本発想として協セクターというのが、お上の力を頼らず、自分たちで互助的に支え合いながら事業をしていこうという側面があることは確かである。
しかし、障害者自立生活運動の歴史に目を転じれば、こうした市民事業体が、重度障害者の生活を支えることができなかったことはすでに歴史が証明している。
自立生活運動でも、初期のヒューマンケア協会に代表されるように住民参加型の有償介助派遣事業の試みはあった。しかしその弱点は早急に認識された。多くの障害者は購買力がないし、重度障害者の介護保障はその発想からは不十分だからである。自費による有償サービスで生きていけるのは、介護が一日あたり数時間程度ですむ障害者たちまでであり、重度障害者はそこからはこぼれる。自立生活運動においてその弱点を補ったのは、それ以前からあった公的介護保障要求運動との連携である。そして、公的介護保障要求運動は徹底して公的責任を追及した。行政に、重度障害者の24時間介護を保障しろ、と迫ったのである。この運動こそ、現在成立している障害者の24時間介護制度の基礎をつくったものであるが、そのことはあまりに認識されていない。重度障害者の24時間介護制度は、行政の公的責任を強く問う中で成立したのである。
上野さんのように、協セクターの可能性に期待して、「弱者救済こそ真の意味での公的福祉の役割」で、協セクターと官セクターは役割分担したらよい、なんて甘いことを言っていたら、公的福祉はどんどん撤退するに決まっている。公的福祉が撤退した後でも、経済力のある人たちは、その購買力を武器に、介助・介護を利用できるかもしれない。しかし、それでいいのか。(なお、障害者の介護保障運動の歴史については、拙著『介助者たちは、どう生きていくのか』(渡邉琢、生活書院)4章に詳しく書いているので参照にされたい。)
e.また、経済力というところで、どうも上野さんには、セレブ的発想がある。たとえば、ヘルパーの指名制度を介護保険に導入できないものか、真剣に考えているようである。「利用者から人気の高いヘルパーに指名が集中すれば、指名料をとって報酬を増額すればよい」そうである。別にセレブ的発想が悪いというわけではない。けれども、これでは貧乏人の反感を買うのは必至だ。金持ちは金を払ってよいケアを受けられる。貧乏人はだれがきても文句いわずがまんしなさい、と言っているようなものだ。そういう嗜好はそれはそれで当然と思うが、それならば『ケアの社会学』は『(セレブの)ケアの社会学』という但し書きが必要ではないだろうか。(そういえば、上野さんは『おひとりさまの老後』という本では、金のある高齢シングル女性のサクセスストーリーのみを取り上げた、と言っている。(現代思想2011・12月臨時増刊号))
d.そして最後に、上野さんは、なぜ「ケアワークは安いのか」という問題設定をするが、彼女にはどうも働く人たちへのまなざしがあまりないような気がする。彼女の視点は、まず基本は経営者に向かい、そしてサービス利用者として障害者にも向かう。けれども、もちろん働く人への言及はあるけれども、どうもその人たちへのまなざしがない。これはぼくが介助者であるゆえの感覚なのだろうか。ワーカーズコレクティブの事例にしても、高経済階層の女性たちが「活動」の主力であり、「労働」して稼がねばならない低経済階層の女性たちはあまり登場しない。指名制の話しにしたって、顔立ちがよくスキルの高い人たちは高い報酬をもらっていくであろうが、うだつの上がらない人たちはそこで格差をつけられる。すべて一律がいいと言っているわけではないが、ヘルパーの選別に対して多くのヘルパーの心理が動揺することは、彼女はご存じなのだろうか。彼女の視点は、基本的にケアワーカーを使用する側にあるように思う。経営者としてケアワーカーを使用する視点。利用者としてケアワーカーを使用する視点。そして彼女には自らがケアワーカーになるという視点があまりないのかもしれない。「わたしたちの社会の女性のケア労働は、もっと条件の悪い他の女性たち(外国人、移民、高齢、低学歴、非熟練等々)の負担において「解決」される」(p451)。これは彼女自身の言葉であるが、彼女はこの課題に対しては十分な解決策を示していない。そして、ぼくが思うに、彼女の『ケアの社会学』からはこの課題は等閑視されざるをえない。上野さんの『ケアの社会学』は『ケアワーカー使用者の社会学』と言い換えられうる側面もあるように思う。
6.未完の『ケアの社会学』
前半で述べたように、この本は、大半の世の「常識人」にとっては革新的内容を含んでいる。彼女の家族破壊と女性解放の戦略は、やはり『家父長制と資本制』以来一貫している。そして、育児と介助、介護をひっくるめたケアという人間の生命に関わる再生産様式に対する彼女独特のまなざしも一貫している。生命の育みとその死の看取りへの深い関心が、戦闘的な彼女の思想の根っこにあるのだろう。それでも、本の構成、内容、論理上、ぼくが感じたところでは以上のような問題点があった。
「労働者性」の軽視と感じる部分に関しては、ここではこれ以上論究できない。むしろ彼女はその部分は論じずに突っ走っていけばいいように思う。それが時代を切り開いてきた先駆者の役割なのだろう。
もう一つ、女性の立場と障害者の立場との間の溝について。本の問題点を論じる中で、障害当事者の視点に立つよりも、フェミニストとしての立場が勝ってしまっているのではないか、だから当事者主権の原則を外しているように見える、と述べた。残念ながら今回のこの本では、その二つの立場の間の溝については言及されていない。彼女もそこらへんを内省することは嫌がるかもしれない。
しかし、障害者運動の嚆矢が「母よ!殺すな」であったことは強調されていいように思う(『母よ!殺すな』(横塚晃一、生活書院)参照のこと。70年代、福祉政策の欠如(=家族への押し付け)の中で母親による障害児殺しが多発したとき、母への同情は世間から多数あり、減刑嘆願運動まで起きたが、殺された障害児への同情の声は一切見られなかったという。それに脳性まひ者たちが抗議したことが障害者自立生活運動のはじまりとされる)。もちろんなぜ「父よ、殺すな!」でないのか、あるいは「母に、殺させるな!」でないのか、といった問いを考えてみるのは有意義である。けれども、障害者たちは、女としての母との格闘から、自分の道を切り開いてきた。自立生活運動は常に、健常者社会、健常者文明一般を批判すると同時に、目前に立ちはだかった「母なるもの」と対決してきた。母はしばしば障害者にとって直接の抑圧者であった。「当事者主権」を本当に語るならば、そこら辺まで踏み込んで論じていってほしい。
上野さんの『ケアの社会学』の内容が深まるには、この辺の格闘が書き込まれていかねばならない。それ抜きには、当事者主権の形式的追跡にとどまるであろうし、70年代と同じ過ち―ケアされる側の声は無視され、ケアする側への同情に終始する―が繰り返されないとも限らないのだ。「当事者主権」の論理も、「利用者本位」などと同様、現場では簡単にすり替えられるのだ。
実は『家父長制と資本制』において、すでにそこら辺の格闘に対する示唆がある。その本の6章に「子供の叛乱」と題する節がある。以下、そこから引用するが、以下の引用で、「子供」を「障害者」ないし「要介護者」、「ケアされる者」に置き換えてほしい。ここに見られる抑圧の問題と取り組んでいくことなしには、『ケアの社会学』は完成していかないであろう。
「子供の抑圧と叛乱は、フェミニズムとつながる重要な課題である。女性と子供は、家父長制の共通の被害者であるだけでなく、家父長制下で代理戦争を行なう、直接の加害―被害当事者にも転化しうるからである。家父長制の抑圧の、もう一つの当事者である子供の問題と、それに対して女性が抑圧者になりうる可能性への考察を欠いては、フェミニズムの家父長制理解は一面的なものになるだろう。」(p133、岩波現代文庫版より)
『ケアの社会学』はまだまだ未完成である。この本の読者は決してここで甘んじていてはいけないのだ。この本に書かれている内容に対して、別の視点、すなわち本来の「当事者」の視点で書かれたものが追加されることが切に待望される。そしてそれは掘り起こされていかなければならない。ケアの課題に対しては、もっと重層的な立場からのやりとり、対話が必要である。その際常に、自分がどこの立場からものを語っているのか、問われざるをえないし、自問せざるをえないだろう。この「大著」をこえて、ケアにまつわる議論を進めてゆくために。日々葛藤の中にありつつ、障害者の地域生活を支える介助者、支援者として生きている者として精いっぱい書かせてもらった。
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カイロジジイのHPは
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