カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

重松清 『ナイフ』

2014-02-08 18:43:18 | 本日の抜粋

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 もしも誰か一人だけ殺さなければならないのなら、サエコは選ばない。恨みはある、憎しみもある、それはもちろん。でも、あのコは一番じゃない。殺したいほど憎んでいる相手がいるとしたら、それはきっと、匿名の手紙を担任の先生に送ったコになるだろう。許さない。あたしは、そのコをぜったいに許さない。

 重松清 『ナイフ』所収「ワニとハブとひょうたん池で」より 新潮文庫

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先日、読んだ川上未映子の『へヴン』も、いじめをテーマにした小説だった。
いくらでも深読みが出来る内容だった。
哲学書を小説として書き上げるとこんな風にもなりますよ、なんて調子だ。
人間にとって悪とは何か?宗教とは何か?他者とは何か?その宗教は果たして救いとなるのか?神は死んでいるのではないか?
いじめの生々しさはくどいばかりに描写されているが、いわゆるいじめ問題として取り扱った物ではない。
実際にはないだろう「いじめ」を創造し、象徴として扱われている。

この短編集『ナイフ』に出てくるいじめは、何処にでもあるいじめだ。
それを、いじめられる側、いじめる側から、親の立場から、教師の立場から一篇一遍の重松清らしい小説に仕上げている。
重松らしいとは、解決策はないんだけど、輝く光はないんだけど、ほのかな明かりで登場人物の心の襞を包み込んでいる、という感じだ。

抜粋部は、いじめをゲームとみなして、必死に明るく強く耐えている主人公の心の描写のひとつだ。
思春期、あてがわれた共同体の中で、その稚拙な共同体の価値観が、周りからの干渉をどれほど嫌がるかを示したものだ。
あてがわれた共同体とは逃れられない共同体である。
そう簡単に、教師や親元に駆け込むわけにはいかない、、、。

そうは言っても、充分にじじいである徳さんには現代のいじめの構造はよく判らない。

この『ナイフ』に収められている「エビスくん」には唯一親近感を抱いた。
病弱な妹を持った主人公が、転校してきた体格のいいエビスくんに日常的にいじめられるようになる。
妹には、彼の名前から神様のような奴だといい、会わせる約束をし、紆余曲折を経て最後に約束を果たす、というものだ。
主人公はいじめられながらも、エビスくんの事は最後まで嫌うことなく接し続ける。
いや、どこか好きでさえある、、、。

どうして、こんな事が成り立つんだろう?

そう、エビスくんのいじめは過酷なものではあったが、昔のいじめだったのだ。





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