岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【信天】天父の御旨なれば満足いたし候         石井十次その50<最終回2>

2005-04-13 10:42:11 | 石井十次
十次は独自の信天主義を「信天教」とも密かに呼んでいた。
晩年の彼は、天を信じて、天の父に祈ればよいとしていた。
その天は、キリスト教の神でなくとも認めている。
「信天教」の教えとして書かれものが、孤児院の憲法と書き換え
られてた経緯がある。これは死の1年前である。

この十次独特の信仰を危惧した金森牧師は書面を送り、
炭谷小梅などは十次の病床に集り、申し合わせて祈った。
そして十次は、改心することになるのである。

「ワシが悪かった、悪かった、悪かった。基督を粗末して
悪かった」と。「今からでも万一、も一度健康を快復するような
ことがあったならば、金森氏を招いてその後に随い、
九州の大伝道をやりたいものである」といって、以来全く最初の
単純な福音の信仰に立ち帰ったという。
すでに、残り数ヶ月のいのちとなってはいたが、信仰には、
時間は関係なかった。

十次は49歳にしてこの世を去る。

私は、晩年の十次は、病の進行とともに自らの事業を整理し、
宮崎に帰ったのではないかと推察していたがそうではなかった。
彼は常に死の直前まで、前進していたのだ。
完結ということは考えていない。
夢の途中だったが、それもまた天命と思っていた。

1914年(大正3年)1月30日。
前年結婚した友子の長子出産の報に接しながら、
短くも豊穣な十次の時間が止まった。
午後2時永眠。

十次の事業は、突然主人公を失うことになる。
その後は「孫三郎兄頼む」と言って。
無責任のように感じるかもしれないが、「皆には神がいる」。
自分がいなくとも神が守ってくれる、と思っていたに違いない。

この50話の話も突然終りたいと思う。
「おい、ここで終るのか」と思われるかもしれない。
そう、その感覚が、十次の死を聞いた人々の思いと通じている
ように思う。

長い間、読み続けていただいた方々、本当にありがとう
ございました。いつの日かふたたび、愛すべき人々について
書いていきたいと思っています。

この文章を書いていて、いくつも発見がありました。
最後にひとつ紹介したいと思います。

十次の親戚であり、孫三郎の部下であった柿原政一郎は、
一時、中国民報の社長をしていたことがあると書きましたが、
十次ゆずりのアイデアマンとして新聞を大伸長させていきました。
ただ、経営は厳しく社員にも苦労をさせていたようです。

ある社員は、転職前より給料が3分の1になり3人の子どもを
食べさせらないと直談判した。
この談判で、この社員の給料は2分の1になったといいます。
暫くしてこの社員がまた頼み事に来た。
「なんだ」と聞くと、「息子が目の病気だが医者も知らない。
金もない」という。
政一郎は、六高の同窓に岡山医大の医者がいたので、手術を頼み
こんだ。
手術は無事成功した。
健康保険のない時代である。社員は多額の支払を覚悟したが、
いつまで経っても請求書は送られて来なかった。

この社員が私の祖父だった。
実家にある山陽新聞史(中国民報は前身)を前に、
老いた父から初めて聞いた話だった。

それでは。




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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (清岡)
2005-04-19 01:00:03
岩清水さんありがとう

わたしも一緒に旅をしてきた気持ちになりました。
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ありがとうございます。 (岩清水)
2005-04-19 11:04:10
清岡さんへ。

私はあなたの声に励まされて書きてきたように思います。

こちらこそありがとう。
返信する
Unknown (ノエル)
2019-07-14 16:17:27
はじめまして。保育士試験の勉強中、石井十次をもう少し知りたいと、なんとなく検索をしたところ、岩清水さんのブログを拝読することになりました。ほんの一部しかまだ拝読出来ておりませんが、とてもとてもドラマチックな十次の生涯に、そしてその思想に強く惹かれております。また、最後の岩清水さんとの繋がりについて、そのご縁に感動しております。また試験後時間を持てるようになりましたら、ゆっくり拝読させて頂きたいと思います。ありがとうございました。
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コメントありがとうございます (岩清水)
2019-07-15 06:44:19
ノエルさん、お読みいただきありがとうございます。受験勉強頑張ってください。社会福祉の先人を深く知ることは心を豊かにすることにつながると思います。素敵な保育士さんになってください。
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