
2005年4月25日に起こったJR福知山線脱線転覆事故の被害者と家族の
2年間を追ったドキュメンタリーを観た。
私はこの事故の瞬間は自宅のテレビの前にいた。
第1報は、線路に車が入って衝突事故が起こったという程度だった。
しかし、時間が経過するに従い、とんでもない大事故が起こっていることが
わかってきた。JRの説明は二転三転し、事故の全容の把握ができなかったことを
覚えている。
このドキュメンタリーは、事件当日事故の発生5時間後に、マンションに激突し
飴のようにねじれた2両目から救出された鈴木順子さんの「生きる」ための闘いを
追ったものだ。
救出直後に救急医療を担当した医師は順子さんが男女の性別も分からない状態
だったこと。口の中がガラスだらけで処置に窮したと話した。
順子さんは直ぐにヘリコプターで大阪の病院に救急搬送された。
処置をした医師は、駆けつけた両親に向かって回復の見込みなしと厳しく伝えた。
MRI画像では、脳には溝や皺がなく、例えてみれば箱の中に豆腐をいれ、その箱を
強い力で上下左右に動かしたような状態だったという。
医師の判断も当然だと思われたが、家族はそれを受け入れなかった。
結果的に医師の判断は間違っていた。
医師の判断を誤診にさせたのは、順子さん自身と家族による力だった。
しかし、回復への道は冷酷なまでに厳しい。病室で意識のない中、家族の必死の
呼びかけが功を奏し、順子さんの意識が戻ったのは、事件後5ヶ月も経過してからだ
った。
最初の発語は、「お母さん」。
しかし、事故で口の中を負傷したことのトラウマからか、食事を拒否し続けた
(事故車両で無意識にガラスを飲み込まないようにしていた)。
病室にカメラが入ったのは2005年10月からだ(事故の半年後)。
母親からの連絡だった。
母親にはある決意があったのかもしれない。
この時期、順子さんは、「どうして」を繰り返していた。
病院にいることや、自身の身体の状態の意味がわからなかったのかもしれない。
2006年1月、「どうでもいいだろう」と感情のコントロールができない。
リハビリ担当のPTに対してもいやな事は全力で拒否した。
しかし、この反応の強さに逆に回復の可能性を感じたとPTは話した。
2月 水中訓練。立ち上がりのリハビリ。
「どうだっていいよ」。しかし溺れたくはない。
3月 病院が、夜間の自傷行為予防のためとして左手を固定したが、鬱血した。
家族は在宅治療を決める。退院。
自宅をバリアフリーにした。大阪にいた姉も自宅の傍に転居してきた。
家族が揃った。
最初は、介護ヘルパー経験のある母親も介護にとまどったが、数日後には息が
あってきた。
母親「毎晩、心底嬉しかった」
その後、順子さんは再び口を硬く閉ざし食事を拒否した。
ところが、1週間後、二度目の奇跡が起こった。
順子さんは自ら口を開け、食事を受け入れたのだ。
そして、笑顔が戻った。
母親「やっと春がきた」
順子さんは、「ありがとう」という言葉を不自由な手で書き始めた。
2006年10月。
再びカメラが回る。
順子さんは体重も増え、頬もふっくらしている。
レポーターが順子さんに聞く。
「電車のこと覚えている?」
順子さんは「突然、変な方に動いていると思ったら横になった。後は覚えて
いない」と話す。
11月 歩くための水中訓練を始める。脳の右側の損傷が激しいために左半身の
マヒが強く苦しいリハビリが続く。
順子さんと家族との関係は大きく変わった。事件前はよく喧嘩をしたが、今は
しなくなったという。
「ありがとう」という言葉とともにおだやかな性格へと変わった。
家族は、順子さんが悟りを開いたのだと言い合った。
毎月、鈴木家に男性が訪問する。長女を同じ事故で失くされた奥村恒夫さんだ。
奥村さんと順子さんの両親は、事故直後に娘を探していた時に、たまたま出会った
のだという。
奥村さんは自身の無念さに心に秘め、新しく得た友のことを思い、楽しそうに時間
をともにする。
順子さんが事故のことを語る。
「もう少し時間をずらして、乗ればよかった」
「前の私にしてほしい」
「くやしい」
このドキュメンタリーは、大阪の救急医療センターに家族でお礼にいくところで
終わる。
順子さんは「みんなのお陰だ。頭があがらない。ありがとうとしかいえない」と
いう。
医師は自身の不明を恥じながらも、うれしそうに応対していく。
※メモを見ながら書きましたが、正確に記述できていないところがあると
思います。ご了承ください。
なお、JR福知山線事故の経過と私なりの掘り下げは、カテゴリーのJR福知山線脱線
転覆事故に書き込んでいます。
2年間を追ったドキュメンタリーを観た。
私はこの事故の瞬間は自宅のテレビの前にいた。
第1報は、線路に車が入って衝突事故が起こったという程度だった。
しかし、時間が経過するに従い、とんでもない大事故が起こっていることが
わかってきた。JRの説明は二転三転し、事故の全容の把握ができなかったことを
覚えている。
このドキュメンタリーは、事件当日事故の発生5時間後に、マンションに激突し
飴のようにねじれた2両目から救出された鈴木順子さんの「生きる」ための闘いを
追ったものだ。
救出直後に救急医療を担当した医師は順子さんが男女の性別も分からない状態
だったこと。口の中がガラスだらけで処置に窮したと話した。
順子さんは直ぐにヘリコプターで大阪の病院に救急搬送された。
処置をした医師は、駆けつけた両親に向かって回復の見込みなしと厳しく伝えた。
MRI画像では、脳には溝や皺がなく、例えてみれば箱の中に豆腐をいれ、その箱を
強い力で上下左右に動かしたような状態だったという。
医師の判断も当然だと思われたが、家族はそれを受け入れなかった。
結果的に医師の判断は間違っていた。
医師の判断を誤診にさせたのは、順子さん自身と家族による力だった。
しかし、回復への道は冷酷なまでに厳しい。病室で意識のない中、家族の必死の
呼びかけが功を奏し、順子さんの意識が戻ったのは、事件後5ヶ月も経過してからだ
った。
最初の発語は、「お母さん」。
しかし、事故で口の中を負傷したことのトラウマからか、食事を拒否し続けた
(事故車両で無意識にガラスを飲み込まないようにしていた)。
病室にカメラが入ったのは2005年10月からだ(事故の半年後)。
母親からの連絡だった。
母親にはある決意があったのかもしれない。
この時期、順子さんは、「どうして」を繰り返していた。
病院にいることや、自身の身体の状態の意味がわからなかったのかもしれない。
2006年1月、「どうでもいいだろう」と感情のコントロールができない。
リハビリ担当のPTに対してもいやな事は全力で拒否した。
しかし、この反応の強さに逆に回復の可能性を感じたとPTは話した。
2月 水中訓練。立ち上がりのリハビリ。
「どうだっていいよ」。しかし溺れたくはない。
3月 病院が、夜間の自傷行為予防のためとして左手を固定したが、鬱血した。
家族は在宅治療を決める。退院。
自宅をバリアフリーにした。大阪にいた姉も自宅の傍に転居してきた。
家族が揃った。
最初は、介護ヘルパー経験のある母親も介護にとまどったが、数日後には息が
あってきた。
母親「毎晩、心底嬉しかった」
その後、順子さんは再び口を硬く閉ざし食事を拒否した。
ところが、1週間後、二度目の奇跡が起こった。
順子さんは自ら口を開け、食事を受け入れたのだ。
そして、笑顔が戻った。
母親「やっと春がきた」
順子さんは、「ありがとう」という言葉を不自由な手で書き始めた。
2006年10月。
再びカメラが回る。
順子さんは体重も増え、頬もふっくらしている。
レポーターが順子さんに聞く。
「電車のこと覚えている?」
順子さんは「突然、変な方に動いていると思ったら横になった。後は覚えて
いない」と話す。
11月 歩くための水中訓練を始める。脳の右側の損傷が激しいために左半身の
マヒが強く苦しいリハビリが続く。
順子さんと家族との関係は大きく変わった。事件前はよく喧嘩をしたが、今は
しなくなったという。
「ありがとう」という言葉とともにおだやかな性格へと変わった。
家族は、順子さんが悟りを開いたのだと言い合った。
毎月、鈴木家に男性が訪問する。長女を同じ事故で失くされた奥村恒夫さんだ。
奥村さんと順子さんの両親は、事故直後に娘を探していた時に、たまたま出会った
のだという。
奥村さんは自身の無念さに心に秘め、新しく得た友のことを思い、楽しそうに時間
をともにする。
順子さんが事故のことを語る。
「もう少し時間をずらして、乗ればよかった」
「前の私にしてほしい」
「くやしい」
このドキュメンタリーは、大阪の救急医療センターに家族でお礼にいくところで
終わる。
順子さんは「みんなのお陰だ。頭があがらない。ありがとうとしかいえない」と
いう。
医師は自身の不明を恥じながらも、うれしそうに応対していく。
※メモを見ながら書きましたが、正確に記述できていないところがあると
思います。ご了承ください。
なお、JR福知山線事故の経過と私なりの掘り下げは、カテゴリーのJR福知山線脱線
転覆事故に書き込んでいます。