毬子は戸惑いを覚えると同時に恐怖にも駆られた。
乗った馬が雲を突き抜け、成層圏に達しようとしていたからだ。
この先どうなるのかが分からない上、地上に戻る術もない。
ヒイラギが声を落として慰めてくれた。
「俺がついている。どんな事が起きようと一緒だ」
何が起こるというのか。
いや、すでに起こっているし。
不意に絹を引き裂くような悲鳴が脳内に響き渡った。
「ウッギャー」とサクラ。
「どうしたの」
「どうしたも、・・・こうしたもないわ。
ウッゥー。
伸ばしている触手が限界にきたみたい。千切れそう」
サクラは『烏鷺神社』の精霊。
参拝客の願い事が積もりに積もって言霊に昇華し、
さらに年月を積み重ね、ついには精霊にまで上り詰めた。
それがサクラ。
精霊としての本体は烏鷺神社にあり、毬子の側には触手を伸ばして遊びに来るだけ。
その触手にも限界があった。
旧江戸内から外に伸ばすほど長くはないのだ。
それなのにここまで律儀に付き合ってくれた。
一人痛みに耐えていたのだろう。
毬子は自分の立場も忘れてサクラを説いた。
「サクラ、私は大丈夫、ヒイラギや騅が付いていてくれるから。
アナタは怪我しないうちに神社に戻りなさい」
「そんな、・・・」
「アナタだけでも戻って、みんなに伝えて欲しいの。
特にお婆ちゃんに。
私は元気だし、必ず生きて戻るからって」
珍しくサクラの声が小さくなった。
「マリ、・・・。
・・・。
分かったわ。みんなに伝える。
毬子は必ず生きて戻るって。
お婆ちゃんや百合子には特に。
毬子、本当に生きて戻るのよ」
ヒイラギが力強く言う。
「マリは俺に任せろ」
「頼むわよ」とサクラ。
サクラの気配が遠ざかる。
戻るように言ったものの、いざ戻られたら寂しいもの。
であるが弱音は吐かない。
ヒイラギが、さも馬鹿にしたように問う。
「お婆ちゃんや百合子は分かるが、好きな男に伝言はないのか」
「そんなのいないわよ。私に居候しているんだから、分かるでしょう」
「分かってはいるが、念の為にな。やっぱり百合子がいいのか」
分かってるくせに聞いてくる。
毬子はヒイラギの態度にむかついた。
「変な意味で聞いてるの」
ヒイラギが変にドギマギする気配。
「そうじゃない。そうじゃない。・・・そうじゃないんだ」
窮するなんて、ヒイラギにしては珍しい。
「百合子は大事な大事な女の子の友達よ」と毬子は言い切り、
「私が男に生まれていれば良かったのよね」と重ねた。
初めて本心を口にし、胸のつかえが下りた気がした。
ヒイラギが溜め息混じりに問う。
「男に生まれたかったのか」
百合子への感情とは別に、「男に生まれたかった」とは心底から思っていた。
「そうよ。
お爺ちゃんは私に厳しく剣を教えてくれたけど、必ず一線を引いていたわ。
たぶん私が男だったら、そんな遠慮はなかった筈よ」
「薄々はマリの気持ちには気付いていたけど、本気だったんだ」
「アナタは私の感情の中にはズカズカと入ってこなかったものね。
ありがとう。
アナタは口は悪いけど優しいのよね」
ヒイラギが苦笑い。
「爺さんが一線を引いていたのは、マリが女で、いずれ子を成す母体だから、
それを壊したくなかったんだろう」
女は出産するだけの道具と認識している発言で、聞いていて嫌になる。
「私は出産する機械なの」
「違う、違う。
爺さんはそうは思ってなかった筈だ。
巣鴨の榊家で若いのはマリ一人。
年寄り二人が死ねば、本当の一人ぼっちになってしまう。
それじゃ寂しいだろう。
爺さんとしてはマリが良き伴侶を得、子沢山の家庭を築けば幸せになる、
そう考えていたんだろう」
確かにそうかも知れない。
ヒイラギの推測に間違いはないだろう。
不意にサクラの声が届いた。
「受け取って」と。
目の前の空間が揺らぎ、忽然と抜き身の刀が出現した。
途中で落とした、「風神の剣」に間違いない。
毬子は慌てて手を伸ばして受け取った。
「どうしたの」
「何かあった時に力になるかなと思って。アタシに出来るのはこれだけ。
それじゃアタシ帰るから」
再びサクラの気配が遠ざかる。
「ありがとうサクラ、本当にありがとう」と毬子。
思わず涙が零れた。
ヒイラギが情感溢れる声で言う。
「アイツ平気な声をしていたが、触手が随分と削られていたぞ。
届ける為に触手を犠牲にしたんだろうな」
毬子は涙流れるまま気持ちを引き締めた。
「必ず、みんなの元に戻るわ」
手にした刀は奇妙に大人しい。
最前までは狂気のような妖気を顕わにしていたのに、それが嘘のように消えていた。
「刀に巣くう奴にも人並みの感情があるんだろう。
それでそいつが現状に戸惑っているんだ」とヒイラギ。
急に辺りの空間が揺らいだ。
まるで地震のよう。
揺らぎを体感した瞬間、辺りが暗くなった。
夜ではない暗さ。
星明かりも月明かりもない。
まさに漆黒の闇。
次の瞬間には、これまで一度として見たことのない世界にいた。
藍色一色が溢れる世界にいた。
感覚としては、トンネルを抜け出た感じだ。
見渡す限り、霧のような微細なサイズで、淡い藍色が点滅を繰り返していた。
光体が上下左右に緩やかに揺れ動いているのだが、正体までは掴めない。
★
ランキングの入り口です。
(クリック詐欺ではありません。ランキング先に飛ぶだけです)

乗った馬が雲を突き抜け、成層圏に達しようとしていたからだ。
この先どうなるのかが分からない上、地上に戻る術もない。
ヒイラギが声を落として慰めてくれた。
「俺がついている。どんな事が起きようと一緒だ」
何が起こるというのか。
いや、すでに起こっているし。
不意に絹を引き裂くような悲鳴が脳内に響き渡った。
「ウッギャー」とサクラ。
「どうしたの」
「どうしたも、・・・こうしたもないわ。
ウッゥー。
伸ばしている触手が限界にきたみたい。千切れそう」
サクラは『烏鷺神社』の精霊。
参拝客の願い事が積もりに積もって言霊に昇華し、
さらに年月を積み重ね、ついには精霊にまで上り詰めた。
それがサクラ。
精霊としての本体は烏鷺神社にあり、毬子の側には触手を伸ばして遊びに来るだけ。
その触手にも限界があった。
旧江戸内から外に伸ばすほど長くはないのだ。
それなのにここまで律儀に付き合ってくれた。
一人痛みに耐えていたのだろう。
毬子は自分の立場も忘れてサクラを説いた。
「サクラ、私は大丈夫、ヒイラギや騅が付いていてくれるから。
アナタは怪我しないうちに神社に戻りなさい」
「そんな、・・・」
「アナタだけでも戻って、みんなに伝えて欲しいの。
特にお婆ちゃんに。
私は元気だし、必ず生きて戻るからって」
珍しくサクラの声が小さくなった。
「マリ、・・・。
・・・。
分かったわ。みんなに伝える。
毬子は必ず生きて戻るって。
お婆ちゃんや百合子には特に。
毬子、本当に生きて戻るのよ」
ヒイラギが力強く言う。
「マリは俺に任せろ」
「頼むわよ」とサクラ。
サクラの気配が遠ざかる。
戻るように言ったものの、いざ戻られたら寂しいもの。
であるが弱音は吐かない。
ヒイラギが、さも馬鹿にしたように問う。
「お婆ちゃんや百合子は分かるが、好きな男に伝言はないのか」
「そんなのいないわよ。私に居候しているんだから、分かるでしょう」
「分かってはいるが、念の為にな。やっぱり百合子がいいのか」
分かってるくせに聞いてくる。
毬子はヒイラギの態度にむかついた。
「変な意味で聞いてるの」
ヒイラギが変にドギマギする気配。
「そうじゃない。そうじゃない。・・・そうじゃないんだ」
窮するなんて、ヒイラギにしては珍しい。
「百合子は大事な大事な女の子の友達よ」と毬子は言い切り、
「私が男に生まれていれば良かったのよね」と重ねた。
初めて本心を口にし、胸のつかえが下りた気がした。
ヒイラギが溜め息混じりに問う。
「男に生まれたかったのか」
百合子への感情とは別に、「男に生まれたかった」とは心底から思っていた。
「そうよ。
お爺ちゃんは私に厳しく剣を教えてくれたけど、必ず一線を引いていたわ。
たぶん私が男だったら、そんな遠慮はなかった筈よ」
「薄々はマリの気持ちには気付いていたけど、本気だったんだ」
「アナタは私の感情の中にはズカズカと入ってこなかったものね。
ありがとう。
アナタは口は悪いけど優しいのよね」
ヒイラギが苦笑い。
「爺さんが一線を引いていたのは、マリが女で、いずれ子を成す母体だから、
それを壊したくなかったんだろう」
女は出産するだけの道具と認識している発言で、聞いていて嫌になる。
「私は出産する機械なの」
「違う、違う。
爺さんはそうは思ってなかった筈だ。
巣鴨の榊家で若いのはマリ一人。
年寄り二人が死ねば、本当の一人ぼっちになってしまう。
それじゃ寂しいだろう。
爺さんとしてはマリが良き伴侶を得、子沢山の家庭を築けば幸せになる、
そう考えていたんだろう」
確かにそうかも知れない。
ヒイラギの推測に間違いはないだろう。
不意にサクラの声が届いた。
「受け取って」と。
目の前の空間が揺らぎ、忽然と抜き身の刀が出現した。
途中で落とした、「風神の剣」に間違いない。
毬子は慌てて手を伸ばして受け取った。
「どうしたの」
「何かあった時に力になるかなと思って。アタシに出来るのはこれだけ。
それじゃアタシ帰るから」
再びサクラの気配が遠ざかる。
「ありがとうサクラ、本当にありがとう」と毬子。
思わず涙が零れた。
ヒイラギが情感溢れる声で言う。
「アイツ平気な声をしていたが、触手が随分と削られていたぞ。
届ける為に触手を犠牲にしたんだろうな」
毬子は涙流れるまま気持ちを引き締めた。
「必ず、みんなの元に戻るわ」
手にした刀は奇妙に大人しい。
最前までは狂気のような妖気を顕わにしていたのに、それが嘘のように消えていた。
「刀に巣くう奴にも人並みの感情があるんだろう。
それでそいつが現状に戸惑っているんだ」とヒイラギ。
急に辺りの空間が揺らいだ。
まるで地震のよう。
揺らぎを体感した瞬間、辺りが暗くなった。
夜ではない暗さ。
星明かりも月明かりもない。
まさに漆黒の闇。
次の瞬間には、これまで一度として見たことのない世界にいた。
藍色一色が溢れる世界にいた。
感覚としては、トンネルを抜け出た感じだ。
見渡す限り、霧のような微細なサイズで、淡い藍色が点滅を繰り返していた。
光体が上下左右に緩やかに揺れ動いているのだが、正体までは掴めない。
★
ランキングの入り口です。
(クリック詐欺ではありません。ランキング先に飛ぶだけです)

