考えるのが好きだった

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生徒が「わからないこと」も教えましょう

2006年10月19日 | 教育
 生徒を見ていると、教えられることはわかって当然、わからないのは先生の教え方が下手なせい、自分たちは悪くない、という気配があるように感じてやまない。それで、勉強が「自分が知っていること、わかることの確認」になっている。だから、試験が返ってくれば○を目で追いかける。「わかること、わかりそうなこと」しか受け入れようとしない。「自分の知らないこと、わかりにくいこと、わからないこと」を自分の中に取り込もうとしない。もっと言えば、これらの存在を認めようとさえしないかのように振る舞う。
 甚だしく傲慢である。なぜなら、自分にわからないことはない、とでも思っている発想だからだ。

 (何だか書くのがめんどーになってきたからちょっと端折る。笑)

結論:
 生徒がこうなったのは、これまでの教え方が、生徒のわかるように、わかりやすいように、負荷をなるべく掛けないように、と気を配って教えてきたからである。(←あ、教員の反感を買いそう。。私も教員だけれど。)

 「わかること」に価値があるなら、「わかる自分」に価値があることになる。それで、「わからないこと」を認めなければ「わかる自分」を保ち、自分の価値を落とさずにいることができるのだ。
 だから、こういった生徒の反応は、当然の帰結である。

 教員は、世の中には、君にはわからなくても、もの凄い価値のあることがあるんだよ、と教えてこなかった。「わからないのは可哀想」と教員は勝手に思ってきた。わかることが素晴らしいことである、とばかり教えてきた。だから、今はたとえわからなくても「そのうちわかってくればいいこと」を教えなかった。なぜなら、今わからないのが可哀想だから、無理をさせるのはいけないから、わからない不快感を感じさせたくないから、子どもにそういう不快感を感じさせる自分がイヤだから。
 「わかること」を重視する余り、「わからないこと」がいけないことだとか、情けないことであるかのように思わせた。覚えることも、わかってから覚えるべきだと教えた。

 しかし、これらはおそらくみんな間違いだったのだ。

 世の中には「わからないこと」がたくさんある。(現にあなたはそんなによくわかっているのですか。)どうして「わからないことがたくさんある」のがいけないのか。
 わからなくてもやってみたり、とにかく覚えれば、わかるようになったりするのに、わからない不安や覚える苦痛を感じさせることがそんなにいけないのか。
 何にせよたくさんある「わからないこと」の中から、少しでも「わかること」を見つけようと、わかる努力をする苦労がなぜいけないのか。(だったら、学者はいけないことをやっている!)

 これらは一種の「背伸び」である。ウエイトトレーニングなら、汗水垂らして負荷を掛けるまさにそれである。
 それが、なぜ、勉強においては「無理をさせない」「負荷を少なく」になるのだろうか。
 「わかること」ばかり教えていると、生徒は、どんどんバカになる。
 「わからないこと」がたくさんあった方が、逆説的に「わかること」は増えるだろう。それで、一応は教えておきながらもまだわからなくていい、と留保する分のある方が、どれだけ現実に即していて、未来に向かって伸びていけるかわからないと思う。


4 コメント

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Unknown (madographos)
2006-10-20 01:05:46
ふむふむとうなずきつつ読ませていただきながら,感じたことなのですが,もしかしたら,大人も「わからないこと」に耐えられなくなってきているのではないでしょうか。最近の教育に関する論調をみると,いかにもわかりやすすぎるのです。競争原理を導入すれば学校が活性化するとか,何とかメソッドをつかえば学力が向上するとか,教員の質を向上させるために免許を更新制にしようとか,そんなに世の中わかりやすくできていないよと言いたくなります。本当に大切なことは「わからないこと」のなかにあるんだよと子どもたちに教えてあげたいのですが,世の中に「わかりやすさ」という「うさんくささ」が充満しているものですから,どうも孤立無援という感じがしてなりません。それゆえ,このブログに来るとほっとします。
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Unknown (執事)
2006-10-20 02:52:58
普通の人はわかったと思っているものをそれ以上追求しませんからね。

わからないことがない状況、そう思い込んでいる状況は、思考停止に陥る原因です。



また教師が生徒の「わかること」「わからないこと」を決めるというのも傲慢な話です。

そういう教師は自分がどの生徒よりも頭がいいと思っているんでしょうね。

教師は学者である以前にガイドであって欲しいものです。
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「正しさ」よりも「わかりやすさ」 (ほり(管理人))
2006-10-20 22:05:07
madographosさん、コメントをありがとうございます。



世間一般が、快楽追求の商業主義に毒されているので、「わかりやすさ」を是とし、思考停止状態になっているのでしょう。だって、「快楽」と「わからないこと」は両立しませんもの。

大人は、自分たちが快楽を求めているので、子どもだけに苦痛たる「わからないこと」を押しつけるわけにいきません。たとえ、それが成長を促進するとわかっていたとしても、心情的にできないのですよ、きっと。



>>孤立無援



確かに。

これからも仲良くしてください。



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思考停止 (ほり(管理人))
2006-10-20 22:20:07
執事さん、コメントをありがとうございます。



小さい子どもの場合、知的好奇心の強い子は「わかった」あとも何かを追求しようとしますが、そうでないと、わかって終わり。



>>また教師が生徒の「わかること」「わからないこと」を決めるというのも傲慢な話です。



時々、この傲慢さを感じます。「えっっ」って。なんでそこで線を引くの、って。引いて良いの、って。

自分は頭が良いと思っている教員は多いと思います。私から見て頭のいい人は、あまりそう思ってないようです。

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