考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

勉強の目的は「わかる」ことでは決してない

2006年10月08日 | 教育
 勉強をするときに目指すのは、やはり、わかることでは「ない」と思う。
 こう言うと、「勉強は、わかるようになるためにするんじゃないの? わかるためじゃないの?」と言われそうである。しかし、ここで、「それを否定しない」という言い方で答えてしまうと、説明のしようがなくなるから、私はそう答えないことにする。

 勉強とは、「わからないことに挑むこと」と定義する。

 「わかるためにする」と言うより、「わからないことに挑む」ために行うのが勉強ではないか。それで、「わかる」とは、たまたま結果的に生じることに過ぎないのではないか。言い方を変えると、「わかったこと」は現実として存在しうるが、「わかること」はただの想定でしかない。だから、「わかること」などただの空想を目指してはいけない。(子どもの学習も偉大な学者の研究も、当の本人にとってどんなものであるかという視点で言えば、まったく同じである。)

 それこそ、小学校か中学校で習った高村光太郎の詩で、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」みたいなものである。「わかる」というのは前方にあるのではなく、自分の後ろに、過去を振り返ったときに「わかった」という過去形としてしか生じ得ないのが勉強における「わかる」なのである。

 子どもは、勉強をするとき、どんどん挑むべきなのである。それで、「わからない」のは当たり前、それでも「わからない」に耐えて挑戦していかなければならないのである。しかし、「わからないこと」にどんどん挑戦していけば、必ず必然的に「わかった」ことができてくるものである。だから、安心して挑んでいけばよいのである。また、わかることで得られる安定感より、わからないことに耐える力の方が、どれだけ人生に役に立つかわからないと思う。


2 コメント

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Unknown (森下礼)
2006-10-09 07:36:31
「わかる」ことを勉強の目標に置くと、どうしても生徒に「受身」の姿勢が生まれてしまいますね。「わからないことに挑戦する」という姿勢はいかにも前向きでいいですね。私の言い方で言えば「問題を自分で設定する」姿勢となります。私自身、中学生のころ、「多角形の対角線の本数は何本か?」という問題を自分で設定し、見事解けたという体験があります。あとで確かめたら、考えたとおりの結果で、大いなる喜びを得ました。この体験は以後の私の、学問への姿勢に大きな方向性を与えてくれました。考えるのが好きなのは、ほりさんと同じく私もそうです。

 それにしてもほりさんのブログは熱いですね。この熱さは生徒にも伝わるのではないですか?そこへいくと、東大起業サークル元代表の工学部3年保手濱彰人さんは、学業をほったらかし、起業の具体化として塾を立ち上げたのですが、自分だけが熱いという感じです。現に彼が中心になって出版した「東大生が書いた頭が良くなる算数の本」というもの、以前私のブログで取り上げましたが、算数を学ぶであろう小学生はそっちのけで、執筆者だけが楽しむという内容の「怪作」です。人を教える以前に自分の学業をちゃんとやったらどおW?とい

う意見を持っています。
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浮いてます・笑 (ほり(管理人))
2006-10-09 15:05:57
森下礼さん、コメントをありがとうございます。



そうなんですよ~。「わかる」ことを目的とすると、わかった段階で終わっちゃう。でも、これは違いますよね。だから、今の生徒は、あ~んと口を開けて待っていて、「うまく入れてくれよな。美味しかったら食ってやって良いぞー、先生、がんばれよな」って感じ。(笑)ハラが立ってしようがない。本末転倒ですよ~。でも、それが教員の仕事だと思ってる人も大勢いる。私も若いときはいかに生徒にやる気を出させるか、面白い授業をするか、楽しい授業をするか、など、考えさせられたし、自分でも工夫しました。でも、それはあくまでも、「自分で頑張るのが勉強だよ」と教えた上での指導です。ところが今は、先生の工夫ばかり、それだけでやろうとしているようなものです。でも、これは不可能、かつ、本末転倒です。

まあ、「自分で自分のやる気を出させる」「自分でやる気を出す」姿勢の獲得は、小さい子どものときから徐々にクリアしておくべき人生の大きな課題だと思うんですよ。勉強に限らず何においても。でも、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」は一致すべきだと考える、とってもナイーブな人が多い気がします。違っていていいんです、仕方ないんです。それで、「やらなければならないこと」をいかにして「やりたいこと」だと思うか、或いは「やりたくなくても頑張ってやる」ようになるかが大事で、これは他人の仕事ではなく、自分自身で解決すべき課題なんです。それは子どもの時からちゃんと学習して獲得しておかなければならない能力なんです。でも、それができてない。親も教師も、教えて来なかった。まあ、豊かな社会だからこそだと思いますが。ともかく、そういう課題がクリアされてないまま、いい年になっている。で、人に寄りかかる。(人が自分のやる気を引き出してくれるのを待つということ。)また、寄りかかられるのを無意識に喜んでいる大人も現実には多いと思うんです。(今の教員の多くも。)これも、社会が豊かだから、余力があるゆえでしょう。(一種の支配欲かなと言う気もしますが。)結局、根っこはそういうところだと思います。



このブログは、私の「愚痴」です。はい、全てが愚痴、愚痴、愚痴です。(笑)時々書いてるけど、学校では、ほとんど誰もわかってくれないんですよ~。ブログを始めて、自分の考えを理論武装?できるようになったから、ちょっとラクになりましたが。

生徒は、アタマが柔らかいから、教員よりわかってくれることは多いです。でも、私の話はかなり抽象的なんですよ。理解するには、何らかの「転換」が必要だったり、「論理」が要るので、「論」より「情」でものごとを理解しようとする彼らにはわかりにくいんです。(過去記事で、「螺旋思考と入れ子思考」というの、尻切れトンボの無責任記事がありますが、彼らは螺旋思考なんです。)で、しかも2,3年前までは、学校全体の「雰囲気」が、生徒の「自主性」にまかせたただの放任(だから、真面目な子がとても肩身の狭い思いをしていました。)だったので、生徒も私を全くと言っていいくらい理解しなかった。二番手の彼らは、「多数決」で自分の考えを持つんです。だから、他の先生と違うことを言うと、通じない。まあ、今は以前より多少はまともな方向にむいていますが、それでもたぶん私は浮いてるから、生徒の中には「先生、この学校、合ってないんじゃない? そんなことを言うの、先生だけじゃん。」と言う子がいます。(笑)



東大の卒業生が、官僚を避けて起業に、それも時代の流れに乗った金儲けの起業に向かうとしたら、方向がちょっと違うよな、と思ったりします。やはり官立学校なんだから。。

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