五代 友厚-48 2016-04-09 07:05:41 | 長崎の歴史 運上所跡の発達 川口運上所長い鎖国後、ようやく諸外国へ門戸をひらくことになり、 慶応4年7月15日大阪では川口を開港場とした。 ここには運上所(税関)、外国事務局なとが設置されて、 名実ともに開港場としての姿を備えていた。 続いて明治3年には電信局もおかれ、 川口-造幣局間・神戸間の2線が開通した。 しかし川口は名のとおり、安治川上流の小規模な河川港であったため、 外国船の来航が減少し大阪経済も沈滞したので、 明治30年から現在に見られる市営の築港工事がはじめられた。 長崎の歴史
五代 友厚-47 2016-04-06 05:45:54 | 長崎の歴史 現在は閉鎖されており、 世界文化遺産への登録を目指した取組を進めている。 小菅修船場(長崎製鉄所) 薩摩藩士五代才助・小松帯刀と英人T・B・グラバーらの尽力で設けられた 小菅修船場跡五代はイギリス留学から1年後、 御小納戸奉公格という薩摩の商事を握る会計係に就任し、 薩英の共同出資のもと、長崎のグラバーとドックを開設する。 ドックとは、安政の開国以来、日本に入国する外国の商船や軍艦、 艦船が増加し、それらの修理を行う小菅修船場のことである。 2列のレール上に平たい台車が5列連結させて並び、 満潮時に船を台車に載せ、ボイラー型蒸気機関で引き上げる。 これらは日本最初の様式近代的ドックで、 そろばん状に見えることから「そろばんドック」と呼ばれる。 後に、明治政府が買収し、長崎製鉄所の管理となる。 1887年(明治20年)、三菱の所有となり、 現在の三菱重工業長崎造船所の礎となる。 長崎の歴史
五代 友厚-46 2016-04-04 07:25:28 | 長崎の歴史 技師館は、イギリス人技術者が予定を早めて 1年で帰国した後、大砲製造支配所として使用され、 1877年(明治10年)の西南戦争では 西郷軍の負傷兵の仮病院にもなった。 1882年(明治15年)に鹿児島城本丸跡に移築され、 鹿児島学校、中学造士館(七高造士館) の教官室としても利用されていた。 長崎の歴史
五代 友厚-45 2016-04-02 07:05:26 | 長崎の歴史 技師館は外観は洋風だが柱等の寸法は寸尺法で、 屋根裏の小屋組は和小屋という和洋折衷の建物である。 建物と敷地は国の重要文化財及び史跡として指定されている。 長崎の歴史