ヨブに襲い掛かるサタン(ウィリアム・ブレイク)
今年最後の本が川上未映子の『ヘヴン』(2009/講談社)になるとは一週間前まで思わなかった。
近頃これを読みたいと熱望して本を選んでいない。
図書館で「たまたま」手にしたという感じだ。
実は本書で問題にしているテーマは、この世で起こっていることは「たまたま」のことなのか、それともあらかじめ決められていることなのか、といった宗教の領域に踏み込んでいる。
主人公の<僕>は目が斜視であることもあっていじめを受けている(と思っている)。
スポーツも勉強もできて女子すべてが仲良くなりたいと思われている二ノ宮、そしてその手下の百瀬ら数人から殴る蹴るなどの暴行を日常的に受けている。
チョークを食べさせられたり、バレーボールを頭にかぶされて蹴り回されたたりと陰湿きわまりないいじめを受けている。
そんなある日、
<わたしたちは仲間です>という付文が僕に寄せられる。
出したのはコジマという女の子。
コジマは女の子たちからいじめられていて同じ境遇。
離婚して遠ざかった父の汚かった衣服を忘れないため不潔でいようとしていることも原因でみんなから疎んじられている。
コジマは僕にとって救世主のように思えときどき密会するようになる。
コジマはいま私たちがいじめられていることにはきっと意味があるのだと説く。いじめる人たちは今わかっていないだけできっと気づくときがくる、と。だから頑張ろう。
「なにもかもをせんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、……そう思っているの」
これに対して作家はいじめる側の百瀬をしてこう言わしめる。
「君が苛められてるのは君が斜視であるとか、そういうこととは関係ないって言ってるんだよ」
「たまたまっていうのは、単純に言って、この世の仕組みだからだよ」
「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」
「もちろんあとから理由はいくらでも見つけることはできるし、説明することだってできる。でもことのはじまりはなんだって、いつだって、たまたまのことだ」
物事に理由がつけられる、事態は説明できるとき人は安心する。
昨今新聞を賑わすさまざまな凶悪事件に関して、精神病理学者というような肩書の人が引っ張り出されて犯人の心理をそれらしい言葉で解説する。
けれど本当のことなどわからない。闇である。
闇であることほど人間にとって怖いことはない。
川上がいう「たまたまは」ヨブ記におけるヨブの忍従を想起させる。
ヨブは自分が悪いことをしていないと思うのに神から次から次へと災難を与えられる。どうして神は私を試すのか、何の意義があるのか、神を疑うようになる。この試練にいったい何の意味があるのか…。
ここで話題になるのは人の運命はあらかじめ神によって決められているのか、それとも神などいなくてまったく偶然なのか、といった問いかけである。
聖書・キリスト教で永遠のテーマである決まっているのか偶然であるのかといった大きなテーマを川上も当然意識している。
最後に僕は斜視を手術して世の中が変わるほどきれに見えるようになる。
このとき斜視こそあなたをあなたらしくしている特徴といって慰めていたコジマの存在が消えてしまっている。
最後にも物事には必ず意味があるという立場のコジマにもう一度登場してほしかった気がするが、川上が存在の深い淵を覗きこんでコクの出た作品である。