C.naka さんが「コンセプトよくわからん。ミステリーかと思ったらミステリーじゃなかった」というのがおかしい。
本書はミステリーとは対極にある作品。存在と認識に対して著者が刺激的な言葉で綴っていく。
「駅の様子がちょっとおかしい。ホームに人が少ないのである。………駅全体が化けの皮をかぶっているのに、あなたはそれを剥すことができずにいる」(パリへ)
主人公を「あなた」とする二人称の文体が新鮮かつちょっとした違和感もあり、未知の場所への旅の感覚と合う。
パリへ行く列車がストライキで止まりしかたなくベルギーを通る。そこでベルギーフランに対して多額のフランスフランを払ってしまい地団太を踏む話は万人に親しみのある材料だが、多和田はこのレベルにはとどまらない。
近づいてくる男がいれば悪い男だと追ってくれる農夫のような女もいる。これがきっかけにしてあなたは、
「猿が月を捕るような話でも、上手く話せば信用してもらえるのではないか。信用されたら身を粉にして働こう。粉になった身は麻薬の白い粉のようにまわりの人を酔わせるかもしれない。……骨を削ってできた白い肥料は栄養たっぷりで、石の上にも花を咲かせるだろう」(ザグレブへ)
と現実から想像へたやすく身をゆだねる。
いたるところに言葉遊びなどユーモアをもって軽く仕立てるのが多和田流といえよう。
そうかと思えば、
「トイレに行きたい人間と、目が覚めてしまった人間と、起きるのが嫌だと思っている人間と、全部足してみても、たった一人である。これほど自分が一人だと思わされる瞬間はない」(ハバロフスクへ)
と存在をきりきり極めようとする刃のような言葉遣いも冴える。
あなたは他者と自分との境界線を常に意識している。ときに男性と女性とが入り混じり寮生具有の想念にふけったりもする。
人がうっとうしいときは文庫本を読む。
「それほど本が読みたいわけではなく、それは顔を守る小さな盾のようなものだった」(北京へ)
列車という場で体験する人から景色から物から自分を他者をぎりぎりまで認識しようとして発する言葉は刺激的。
ミステリーよりはるかにわくわくさせてくれながら存在のもとへ誘う。