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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

京極堂はぼくの先生

2016-04-23 09:19:40 | 文芸


京極夏彦作品をはじめて手に取ったのが1月下旬のこと。図書館の新刊書コーナーでなにげなく3行読んだ『ヒトでなし』に引き込まれた。
以来、京極作品にはまり、『オジいサン』『後巷説百物語』『嗤う伊右衛門』『西巷説百物語』『眩談』『鬼談』『覘き小平次』『虚言少年』『書楼弔堂破暁』『厭な小説』『百鬼夜行陽』『数えずの井戸』『幽談』と読み続けた。

作者がそう名付けたかどうかは知らぬが「京極堂シリーズ」というのがあり、それは字が小さいやら二段組みやらで読みにくく手つかずであった。
探したら文庫本で読みやいものがあり『姑獲鳥の夏』(うぶめのなつ)に取りかかった。

京極堂シリーズは主役が京極堂、すなわち中禅寺秋彦。古書店の主人にして武蔵晴明社の神主。
相棒のような感じで中禅寺の学生時代の同級生で友人の作家、関口巽が登場する。
作家は京極堂をして次のように言わしめる。
「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口くん」

二人の会話で存在論、認識論は含蓄に富む。
たとえば、脳と心と意識について京極堂が以下のように述べるくだりは教科書に掲載してもいいほどのわかりやすさと切れ味と深さをもった名文といえる。
「つまり人間の内に開かれた世界と、この外の世界だ。外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれを全く無視している。人間は生きていくためにこの二つを巧く添い遂げさせなくちゃあならない。生きている限り、目や耳、手や足、その他身体中から外の情報は滅多矢鱈に入って来る。これを交通整理するのが脳の役割だ。脳は整理した情報を解り易く取り纏めて心の側に進呈する。一方、内の方では内の方で色色と起きていて、これはこれで処理しなくちゃならないのだが、どうにも理屈の通じない世界だから手に負えない。そこで、これも脳に委託して処理して貰う。脳の方は釈然としないが、何といっても心は主筋に当る訳で、いうことを聞かぬ訳にいかない。この脳と心の交易の場がつまり意識だ。内なる世界の心は脳と取り引きして初めて意識という外の世界に通じる形になる。外なる世界の出来事は脳を通して訪れ意識となって初めて内の世界に採り込まれる。意識は、まあ鎖国時代の出島みたいなもんだ」

不確定性原理について
「いいか、関口。主体と客体は完全に分離できない――つまり完全な第三者というのは存在し得ないのだ。君が関与することで事件もまた変容する。だから、君は善意の第三者ではなくなっているのだ。いや、寧ろ君は、今や当事者たらんとしている。探偵がいなければ起きぬ事件もある。探偵などというものは、最初から当事者であるにも拘らず、それに気づかぬ愚か者なのだ。いいか、干菓子は蓋を開けたときにその性質を獲得した可能性もある。事件もまた――然りだ」
本当のことはわからないということになり、それは意識と世界を自由にしてくれるではないか。

京極夏彦は心理学は科学ではなく文学である、という。ぼくもそれはずっと思っていたので得心した。

ぼくは孫が3年生になったら『虚言少年』を勧めるつもり。屁について60ページも書ける才能に感嘆。いまから注文しよう。
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