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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

奥坂まやの一物俳句を読む

2017-09-21 14:16:11 | 俳句

2013年10月26日鷹中央例会(左:奥坂まや 右:布施伊夜子)


奥坂まやはラグビーが好きである。
いま大学ラグビーの王者は帝京大学だが、明治大学と早稲田大学がラグビーの覇権を争っていたころよく奥坂とラグビーの話をした。
奥坂は当時明治を指導した北島監督の「前へ」というシンプルさに共鳴していて「私は縦の明治が好き」といった。
これから奥坂まやの本年度鷹に発表した一物俳句をみていくのだが、ラグビーにたとえれば彼女の一物俳句の魅力は「スクラムトライ」ないし「モールラッシュ」の趣がある。すなわち縦へ殺到する意思の強さと鮮やかさに魅了される。
スクラムの中からボールを出してのバックス展開が配合の味わいとするならば、スクラムの中にボールを入れたままそれを押し込む、あるいは人間集団の中にボールを置いて錐揉みするように突き進むモールは奥坂まや作品の真髄といえよう。



2016年鷹10月号
黒き真空ひまはりのまん中は
奥坂の意識の中に常に世界と我がある。我を包んでいる世界へ向けて季語により穴をあけて通じようとする強い意思がある。向日葵の中心を抜けるとトリップすると宇宙のブラックホールへ至るのではないかというイマジネーションをたぶん奥坂は持っている。

蟬声のぢりぢりと天引き寄する
地球上の生命と天体との関係も奥坂の関心が向く最たるもの。天を天蓋と見る意識が見て取れる。下五に「引き寄する」を持ってくる力業こそ奥坂の真骨頂。


鷹11月号
底意地の悪さうな凌霄花
「底意地の悪さうな」とは信がないということか。へらへらした花びらのありようが信がなく、悪意を感じさせるのか。感じ方は自由で何を書いてもいいのだがこの句は中七字足らずである。奥坂ほどの器量なら五七五定型でびしっと決めてほしいところ。


鷹12月号
恋々とふるへてゐたり露の玉
ふるへを「恋々と」見たところに恋心を感じる。手を触れればつぶれそうな恋心である。

曼珠沙華いつぽん抜けばそこが淵
一本抜いた茎のあった穴のことだろう、淵というのは。向日葵の真ん中の種のところが真空という見立てに通じるものであり、ここでは淵という何かを蔵している暗さへ意思がある。


2017年鷹1月号
椎茸のやうな一語を老人が
老人の発した言葉が椎茸のようだというのである。奥坂の本質は比喩の切れと鮮やかさにあるのだが、この場合、わけのわからない滋養のようなものを感じたのか。

あけび裂け白き混沌が覗く
「混沌」、整然とした態勢になっていない状態は奥坂の故郷といっていい。奥坂は根本的にカオスにいて歓喜にひたる俳人であろう。


2月号
本ひらくやうに冬青空仰ぐ
東京の冬の青空は新潟の人にとってとほうもない恩寵であろう。関東の乾いた青空を独特の比喩で飛躍させている。

野に山に枯みなぎりて醇呼たり
小川軽舟評
衰えることと一般にイメージされる「枯」が「みなぎる」という把握に先ず発想の逆転がある。一面の枯野、あるいは葉を落とし尽くした落葉樹林を想像してみよう。枯とは次の春を迎えるためにいったんリセットされた姿なのだ。醇呼を辞書で引くと「まじりけのないさま」とある。リセットされて無垢になった状態。しかし、それは無味乾燥のものではない。醇呼の醇は芳醇の醇。馥郁たる吟醸の香りである。季節とともに移ろう生命のありようにとりわけ拘ってきた作者ならではの一句と言えよう。
藤田湘子に<枯といふ絶対を待つ雑木山>がある。湘子の場合まだ枯に至っていないが奥坂は枯にどっぷりひたって享受している。「枯みなぎりて」まではぼくでもいえそうだが「醇呼たり」は出て来ない。枯にひたった奥坂の時間と洞察力の凄さに圧倒された一句。

洗はれて意気軒昂の大根かな
小川軽舟評
擬人化によってものの本質を抉り出すのは作者の得意とするところだが、掲句はもはや怪作と呼びたい出来栄え。この大根はまぎれなく大根そのものなのだけれど、性的なメタファーとしての迫力もまた抜きん出ている。
この大根に性的なニュアンスを感じた鷹主宰の読みがすばらしいのであるが、生命の根源を描こうとすると何ごとも性的な味わいを帯びるようである。やはり奥坂の<真中より揺らぎいそぎんちやく展く>はもっとエロティックだろう


3月号
虚を摑むごとく置きあり革手套
「置きあり」というより落としてしまったのであろうがなぜか手袋は上を向き「虚を摑む」なのである。

寒鯉の鰭しづかなるまま浮き来
比喩で飛躍させることで鮮やかな世界を創出することが得意な奥坂だが描写力も並ではない。「鰭しづかなるまま」と対象の一部を凝視したのは高野素十ばりの目の効かし方。

後悔は海鼠のやうに横たはる
言われてみればその通りというのがいい比喩の条件。まさに後悔は海鼠のようである。

夜空解き放ちて雪の降り始む
暗黒の空から雪が降る不思議は夜空が解き放っているのか。こらえきれなくなったのである


4月号
呼びかくるやうに都会の冬夕焼
あまり擬人化の頻度の高くない作者の珍しい技法。

池の面に冰りはじめの皺が寄る
寒鯉の句と同様の写生による「皺」の発見。


5月号
うすらひの端は水とも光とも
並列は俳句をいきいきと立たせる効果的な技法のひとつであり、この句は湘子の<黄菅原霧は粒とも流れとも>を思い起こさせる。

やどかりの脚あふれ出て動きけり
やどかりは殻に入っているという事情がいかんなく見える。書いてない殻をも見せたところがうまい。


6月号
天に乳をふくまするごと芽吹くかな
この比喩は大胆不敵。擬人化でそれも人の側から天という抽象的なものに向けて仕掛けるなど奥坂でなければ思いつかぬところであろう。

菜の花の羽目を外せる黄なりけり
匂いも強いし色もべたべた。言い得て妙の比喩。


7月号
横ざまに落ち山椿みづ吐ける
「横ざまに」という小技の効かせ方と「みづ吐ける」と人の末期のようなとらえ方の妙。

春眠のわたしは布のやうに広い
眠ったことで解放されるあれこれを布の広さに托したイマジネーションのはばたき。

桜散るいつもわれらを置去りに
桜のほうの視点で人間を見たところで新しい味が出た。


8月号
あめふらしのめりのめりと交みをり
これは奥坂の自家薬籠中の書き方。奥坂は鷹俳句会でアニミズムに特化している第一人者。アニミズムの乗り移っている作家は日本語独自のオノマトペの開拓に長けている。



河骨は日輪に一歩も退かぬ
「一歩も退かぬ」という言い方の妙で河骨と太陽を判然とさせている。

息を抜くごとく牡丹崩れけり
牡丹のような大きな花が落ちるとき動物の息を感じるのは不自然でない。不自然でなく飲ませるのが比喩の成否の鍵。


9月号
生きものに手触るるごとく泉に触れ
泉も命があると作者は感じている。命があるものとないものとの間はどうなっているかが作者の永遠のテーマなのだろう。

炎天に頭を摑まれて歩むなり
これも無生物で抽象的な炎天が頭を摑んだと感じているのである。

奥坂はかつて<坂道の上はかげろふみんな居る>と書いた。ここでいう「みんな」は死者のことであろう。自分の父母や師であった藤田湘子や、かつての恋人やとにかく関わりのあった人たち。あるいは死者と生者がいっしょくたになっている、と読んでもいいだろう。
奥坂の俳句は形あるものと抽象的なもの、現実と非現実、我と森羅万象との境界を自由に抜けて往来する。
鷹主宰が<洗はれて意気軒昂の大根かな>の句評で「性的なメタファー」という表現をしたが、まさに奥坂ワールドはメタファーに満ちている。

村上春樹の『騎士団長殺し』は、簡単にいうと、その題名の絵から抜け出てきた騎士団長というイデアに誘われて私と少女がメタファーの世界を旅行するものである。
奥坂の世界はむろん小説ほどの広がりはないが、春樹さんの描くイデアやメタファーと通じるものがある。
春樹さんは現実と非現実の間に通路をつくることで読者をファンタジーの世界へ連れ込んで見せるが、まやさんの俳句もこれに似る。
奥坂まやの一物俳句は現実から非現実へ季語を利してワープするのである。

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