天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

岩永佐保のやわらかき受容

2024-04-14 05:45:54 | 俳句

国分寺跡の桜(国分寺市)



鷹4月号、日光集作家・岩永佐保の以下の6句に注目した。

稜線の有り無し雲や達磨市
「有り無し」は有るか無いかの淡さを言う表現で「有り無しの風」とよく使われているが「有り無し雲」と転じて新しくして見せた。
達磨市は群馬の少林寺が有名でこの句もそこの風景を感じさせるのは稜線の雲を見たゆえ。フレーズに対して季語の離れ方がいい。

日に酔ひてたたむ新聞笹子鳴く
日当たりのいい縁側で新聞を読んでいたのか、「日に酔ひて」が優れた叙情をもたらす。これに対して「笹子鳴く」のかそけさがぴったり決まる。
「達磨市」といい「笹子鳴く」といい取合せの感覚がいい。自分がしかといる句である。

芽おこしの風やつーいと鳥ゆける
風から鳥への橋渡しのように「つーいと」なる擬態語がはたらく。はたらく場所といい音感といい句を軽く立たせている。
「芽おこしの風」は季語「木の芽」を自分なりに料理して工夫がある。季語として普遍性をもたせており見事。作者の個性は十全に発揮されていてほほえましい。

配膳のはじめ箸置春の雪
「配膳のはじめ箸置」、誰でも言えそうで何のてらいもない文言。けれどこの後「春の雪」は手練れであってもなかなか置けない。取合せの句ゆえほかにも置けそうな季語はあるものの、「春の雪」を置かれるとほかが考えられなくなる。季語がめちゃくちゃ振るっている。意外性があって違和感がないのである。
6句の中でもこの句の「春の雪」はずば抜けている。
上手さを越えてこれを選択した人のひととなりのすべてが「春の雪」に出ている。万物をゆったり受け入れるふくよかな叙情を見るのである。

腰に肉付きしは内緒春二番
ユーモアがある。この句を読んで佐保さんとも長い間お会いしていないなあと思った。数年前の印象では太っている感じは皆無であった。ここの「春二番」もいい。「春一番」より春が進んできた頃合い。

ものの芽のひとつひとつに呼ばれをり
「ものの芽のひとつひとつ」はよく言ったものであると感心した。たしかに出たばかりの芽の小ささはこりっとしていて、そこに、ここにと数えることができる。それらに呼ばれてここにいるという発想に素直についていくことができる。擬人法が醸しがちな嫌らしさが皆無。芽に対しての愛情、親近感がいかんなく出ている出色の一物俳句である。


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岩永佐保といえば忘れ得ぬ一句がある。それは、

転勤のこたび雪国皿小鉢

鷹2011年4月号に掲載された句である。鷹主宰は小川軽舟になっていて、彼が特選で採ったときのコメントが強く残っている。コメントを覚えているのはこの句が中央例会へ出されたためか。
主宰は「季語を五七のフレーズの中で使ってしまったときあとがむずかしいのですが」と言ったあと「ここに皿小鉢をぽっと置くのは実に上手い」と絶賛したのであった。
そうなのである。
湘子の『20週俳句入門』は、取合せの句作りを要領よく教えている。ここで湘子は五七ないし七五のフレーズを先に作り、後から季語を探して付けるよう指導している。フレーズの中に季語を入れてしまったら初心者はもう身動きが取れないのである。
それを佐保さんはあっさりやってしまっていて、えらく感心したものである。
あれから13年、佐保さんは着実に自分の世界を広げてきている。根底に人を、ものをふわっと受け止めるやわらかさ、あたたかさがある。
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